東日本大震災と原発事故の思い出
震災のような市民が無力感に潰される事態の中では、普段忙しかった人達でも、夜空を見上げる時間が長くなる。停電のせいで、数多の星が目に入る。無数の流れ星も。それで昼間は押し隠していた感情も一気に吹き出る。世界の多くの紛争地域でも、今多くの人々は同じ数多の星を見ている。
津波
東日本大震災直後の4月、仙台市は学校人事異動を敢行。被災沿岸部の小学校に先生が多数外部から赴任してきた。その校長はまず着任した全員を近くの津波被害地区に送り出した。帰ってきた先生の顔は変わっていた。校長は言った。これから先生方が受け持つ生徒達が見た光景です、よろしくお願いします。
「流れ星は天国へ向かう魂なのだ。その多さに耐えられなくなり目を伏せてしまいました」 「見たこともない美しい星空に、ためていた涙が一気にあふれだした。仙台はこんなに星が見える街だったんだ」
満天の星 | 紡ぐ~羽小箱~ (ameblo.jp)

JRが復旧していないため、直後に津波被害が大きかった亘理方面へ行くには、地下鉄長町駅で臨時バスに乗り換える必要があった。地下鉄は早朝で空いている時間帯だったが、隣の車両に乗客が一人だけ見えた。その人は長椅子に一人座り、ただ天井の一点に顔を向け、静かに泣いていた。
震災直後は完全に物流は止まり、食料の確保も難しかった。ある時、仙台駅前アーケード裏の小さな魚屋が開いてたのを見つけて物色していたら、寒むそうな薄めの黒コートを着た男性が魚のショーケース前で棒立ちし、声をかみ殺して泣いていた。石巻から歩いて仙台に逃げてきた人だった。魚関係のお仕事をしていたらしく、思い出してしまったのだそうだ。
知り合いの自宅の手前まで津波が来た。沿岸から巻き込んできた何台もの車が、玄関前の田んぼに転がった。救助の手もなく、車中には運転手の御遺体が、手つかずに何日もそのままに。周囲には音が無い。風に揺れる木々も津波が押し流した。その木々を住処とし、毎日さえずっていた鳥たちの姿もない。周囲の全ての音源が消え去った。その静寂の中では、多数の遺体が目の前にあっても不思議と怖いという想いは出なかったとも言っていた。
いろいろなことがあった。被災地への棺はピストン輸送しても足らないと、トラック運転手の友人が疲れた顔で言っていた。墓も流され、火葬場もパンク状態で、野球場などの場所に仮りの土葬をされた、数えきれない御遺体。
津波で家屋1階が流され柱だけとなり、その2階へと避難していた知人がいた。そこで行政支援を待っていたのだが、時間が経っても当時混乱を極めていた行政からの連絡はなく、見通しが立たなかった。そこで支援に見切りをつけて、悩みながらも、自ら未来を切り開くため、家を捨てることにした。勇気のある人だ。
最後に壊す前に、その愛着のある家をボランティアに手伝ってもらって、泥かきをし、きれいに磨き上げ、丁寧に別れを告げていた。壊す家なのに、なぜボランティアに泥かきを頼んだのか。またボランティアもそれを知っていて、なぜ引き受けたのか。それは人間の尊厳のためだった。泥にまみれてしまった、その思い出と愛着のある家をきれいに磨き上げる作業をすることで、自分達の心に踏ん切りをつけようとしていたのだった。
被災地や紛争地などで、優先されるべきは人間の尊厳の回復。そのため外部から入った人間は、独断や押し付けは最も避けるべき事柄。まず現地の人々の声を聴くこと。次にあらゆる決定プロセスに現地の人々を参加させること。今後の激動の時代を生きる若い人達には、是非このことを覚えておいて欲しい。
震災では人間捨てたものではないとも感じた。津波被災地の泥かきボランティアでは様々な方が集まって力を合わせた。日の丸背負った右翼青年と共産党のロゴが入ったベストを着た初老夫婦たちが一緒に、人々の日常を破壊した津波の泥をかくのだった。人の尊厳の回復と幸せのために、泥を一緒にかいていた。
原発事故の思い出
地震と津波によって起きた福島原発事故の直後、仙台駅東口のバスターミナルには、米国が自国民の避難のために用意したバスが連なり、それが続々と仙台から出ていくのを、複雑な想いで見ていたのを覚えている。残された仙台市民には、自分達も逃げるか留まるかが非常に悩ましい問題だった。
事故直後は放射能汚染の状況が分からず、仙台市内でも多くの人々がパニックになっていた。避難すべきなのか、留まるべきなのか。ネット上でも、多くの市民の皆さんの阿鼻叫喚に溢れていた。
うちの大学には原発とは関係ない基礎物理研究者が、偶然事故当初から研究室の機械を使って放射能のデータを測っていた。そのデータは皆に重要だろうと自発的にネットでも公開した。一方原発や放射線医学関係の専門家は、ほとんどダンマリ。主に理学部系の人間達がファーストペンギンとしてデータを供給していた。
幸い仙台市内の放射能汚染の状況は軽度だった。ところが一般市民の中には誤解して、それを信じず、正確なデータを公開してあげた理学部の人間を、政府の回し者や工作員となじった。そして、大学に電凸して業務妨害をする人も現れたのだった。彼らは、もう敵と味方の区別がつかない状況だった。
そこで理学部の人間は、正しい放射能の知識が一般人にはないことが原因であると悟り、正しい知識の提供が必要と考えた。まだ大きな余震と混乱が続く市内を探し回り、やっと会場を見つけて、放射能の一般講演会を開催したのだった。そこには子供さんを持ち、心配の極限にあった親御さん達も集まった。
講演は皆さん熱心に聴いてくれた。ただ聴衆の全員がそれで納得したわけではなかった。終了後には講師を取り囲み、様々なことを真剣に質問されていた。正直、殺気立った雰囲気だった。子供がいる親御さんは本当に心配だったに違いない。避難するべきか留まるべきか。それは各家庭で重大な決断だ。
だが自分が驚き感激したのは、質問に取り囲んだお母さん方の中に、非常に理知的で科学を尊重する人達がいたこと。政府や電力会社の工作員かもと我々をまだ若干疑いつつも、彼らは道理のある科学の話をよく理解してくれたのだった。そのお一人がAさん。ご自身が甲状腺を手術で取られていた。ネットにデマが流れてたため、子供が甲状腺癌にならないかと深刻に案じていた。仙台から他県への転出も計画されていた。放射能問題で頭がいっぱいになってもおかしくないのに、Aさんは私がしていた津波被災地域の支援を手伝うと申し出てくれたのだ。
Aさんはまだ心配で仙台に住みたくないと考えており、自分達と意見が異なっていた。が、津波被災者に対する支援では協力をしてくれるというのだ。感激した。南三陸町の海辺の崖の上にあるホテルには沢山の被災者の方がいたが、水道が止まったまま。皆が大変な苦労をしていたが、Aさんはある会社と交渉をして海水を真水にする機械をそのホテルに送ってくれたのだ。これは多くの被災者の方々を助けた。とても有難かった。Aさんは個の自立をした最強のビジネスパーソンだった。ご自身の最大の懸案であるはずの放射能問題を棚上げにして時間を作り、津波被災者を助けてくれたのだった。
当時は原発がまだ安定化していない状況も考えられて、Aさんは大事をとって子供達を連れて他県に移られたが、Aさんは決してデマに騙されて動くタイプではない、強い人だった。私は今でも、そのときのAさんを尊敬している。分野外にもかかわらず、自分が原発近くの制限区域に放置された牛の調査に加わったのは、実はこのAさんの恩に報いるためでもあった。医学部と農学部の先生方は現地で大量の被曝牛の解体をし、持ち帰って放射性物質を調べていたが、甲状腺の調査は当初なかったのだ。しかし当時ネット上では、いい加減な論文に基づいて、放射性セシウムが甲状腺に溜まり、癌を誘発するというデマが広く流布し、人々を恐怖せしめていた。
甲状腺の調査には、大きなニーズがあった。甲状腺の調査が重要なので調べてくださいと彼らに頼んだら、労働する人数が少ないので無理だと言われた。ただ参加してくれるなら調べると言ってくれたのだ。そこで自分も白いタイベックスに身をつつみ、マスクをつけて原発近くのその牧場に行ったのだった。
その持ち帰られた試料から得られたデータには、甲状腺への放射性セシウム蓄積は確認できなかった。これはAさんを含む、当時心配をしていた人々には、大きな朗報だった。
私は仙台に残ったが、Aさんはその後避難された。放射能汚染から突き付けられた人生の選択に関して立場を異にしたが、Aさんは自分や津波被災者を助けてくれた。牛の調査で少しでも報えたのならそれで良かった。意見が深刻に対立しあう人間同士でも、その問題とは別なテーマでは助け合うことができるのだ。
意見対立は他のテーマでの助け合いに支障を与えないという、私が体験したこの事実は、日本の若い人達が今後遭遇するだろう様々な困難な出来事においても、きっと救いになるだろう。立場を超えて協力し合えることは、沢山あるのだ。このことを是非覚えておいて欲しい。
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