見出し画像

情報理論的な宇宙検閲仮説

一般相対性理論のアインシュタイン方程式には、様々な時空の解が存在しています。たとえば有名なものとして、ブラックホール解があります。これは強い重力によって生成される、事象の地平面を伴った天体を記述しています。このブラックホールの内部には、時空曲率が発散する時空特異点というものも現れます。この特異点において一般相対性論がその予言能力において破綻するため、量子重力理論という、より深いレベルの理論を考える動機にもなっています。一方で、量子的な効果が入っていない古典的な一般相対性理論自体でも、すくなくとも現在観測可能な現象に関して、理論としての内的な矛盾はないのではないかと、前世紀には期待されました。その期待の反映の1つが、「宇宙検閲仮説」(cosmic censorship conjecture)です。

時空特異点が事象の地平面に覆われていないとき、それは「裸の特異点」と呼ばれ、宇宙のどこからもその特異点が丸見えになります。その特異点上の初期条件は決められないため、その特異点が他の物体と散乱したり、または特異点自身が輻射を出したりするのならば、その特異点の物理的な影響はその後の宇宙空間の広い領域に及ぶことになります。特異点の深い物理を知らない現時点では、アインシュタイン方程式の解に対する自然な境界条件を我々は課すことができません。すると、今後の宇宙に起きることに対する、一般相対性理論の確かな予言も不可能となります。

ところが多くの解における特異点は、事象の地平面の中に隠されています。物理的な影響は光速度を超えて伝わらないため、地平面内部の特異点が引き起こす物理的な影響は、決して地平面外部に及びません。つまり地平面の外の未来の状態は、地平面外部での初期条件だけで決めることができます。ですから、もし現在の宇宙にある全ての特異点が事象の地平面の内部に隠されているのならば、古典的な一般相対性理論だけでも、確かな予言ができるわけです。そして知られている多くの自然なアインシュタイン方程式の解では、特異点は確かに地平面の内部に現れるだけです。

未来の予言に対して害をなす「悪役」としての時空特異点を、事象の地平面で覆って、その影響が外に出て来ないように、まるで宇宙自身が自己検閲をしているようにも思えます。一般的な証明は無いのですが、この特異点が我々の目に触れないという性質は、現在では宇宙検閲仮説と呼ばれています。現在でもこの仮説を証明しようという研究が世界で進められていますが、その完全な証明はまだ与えられていません。

今回、ここで取り上げるのは、この宇宙検閲仮説の量子情報理論的な拡張です。これは2014年に著者と共同研究者がブラックホールのファイアウォール仮説の研究をもとにして提案したものです。

https://journals.aps.org/prd/abstract/10.1103/PhysRevD.89.124023

量子測定理論では、一般に測定演算子で観測過程が記述されます。たとえば量子場の真空状態における各空間領域での場の量子揺らぎの測定も、この測定演算子で書かれます。また真空状態と言えど、この各地点の量子揺らぎの間には量子もつれが存在しています。そのため、その測定後状態は、測定場所だけでなく空間全体で真空状態からずれて、測定結果に依存した励起状態になり得ます。ただし測定場所から離れた量子揺らぎのエネルギーの平均値は零のままです。測定場所での測定後の平均励起エネルギーは、正になります。この測定演算子に対応した物理的な測定機から、真空状態のその場所の量子場に供給されるのです。

相対論的な場の理論では、リー・シュリーダー定理(Reeh–Schlieder theorem)というものが知られています。量子もつれを通じて、真空状態には、局所領域だけを操作しても、全空間のあらゆる状態に任意の精度で近づけるほどの豊富な情報が含まれているという定理です。ある時空の有限領域Oの内部で定義可能な局所演算子A(O)でも、それを真空状態|0〉に作用させれば、A(O)|0〉は全体の状態空間に稠密に分布することを意味しています。もし領域Oにおける局所演算子から、Oにおける測定演算子演算子が構成できるならば、その測定値に対応した測定後状態は、任意の精度でどんな状態にでもなれることを示唆しています。確率的ですが、これが本当ならば、Oの外側領域にも、いくらでも大きなエネルギーを持った勝手な励起を測定後状態として作れることになります。これはとても非直感的な現象です。Oでの局所的な測定が、Oの外部に裸の時空特異点を作るくらいの励起を作ることも可能なのです。

ところが上の我々の論文では、そのような測定には莫大な測定エネルギーコストがかかることを指摘しました。O外部に特異点を作るような測定後状態をもつ量子測定では、そもそもO内部での測定機が膨大なエネルギーを場に注入する必要があるのです。もちろん、相対論的な場の理論では、このOの内部に分布したエネルギーは、Oからはるか遠い領域に光速度を超えて伝わることはありません。測定後状態に現れる裸の特異点のエネルギーは、そのOの測定機自体が注入したものではないのです。平均としては零のままだが、正負のエネルギー密度の揺らぎが測定値ごとに分解されて、その遠隔地に現れるのです。しかし問題は、測定を実行するO内部に事象の地平面を伴ったブラックホールができてしまうことにあります。

O外部に裸の特異点を含む任意の励起を作るには、Oの実験者はOの測定結果を知ることが要求されます。測定後状態は、その測定結果を知らないと現れないからです。しかし、そのような測定をするには測定機が膨大なエネルギーを用意しておく必要があるのです。エネルギーを光速度の2乗を割ったものは、Oに局在する質量の役目をします。すると、その膨大な大きさの質量の効果がアインシュタイン方程式を通じて現れて、O内部の時空は大きく歪み、事象の地平面がその測定機自体を隠してしまいます。したがって、測定機が吐き出す測定結果を、外に居る実験者は手にいれることができなくなるのです。

測定結果を知ることができなくなった実験者にとって、測定後状態に現れるはずだった遠方の裸の特異点も、出てこなくなります。つまり、真空状態の量子もつれを用いたこのような量子測定に対しても、拡張された宇宙検閲仮説が成り立ちそうなのです。

オリジナルの宇宙検閲仮説は、飽くまで古典的な一般相対性理論の枠組みで論じられたものでした。しかし、実際には量子情報理論的な枠組みまで拡張しても、測定機を呑み込む事象の地平面が、遠方に出てくる危険性があった裸の特異点の出現を阻むのです。これも量子情報と時空の物理の非自明な側面の1つを示しています。


いいなと思ったら応援しよう!

Masahiro Hotta サポートありがとうございます。