ギリギリの魔術師
彼は、社内で「ギリギリの魔術師」と呼ばれていた。
いつも、ぎりぎりのところで何かを間に合わせる。
周囲から見れば、いつも判断が遅かった。
「もう決めないとまずくないですか」
そう言われても、彼は動かない。
そして、ぎりぎりのところで動く。
最後には、なぜか間に合わせる。
営業予算も毎期、ほとんど100.0%。
「またギリギリですね」
そう言われるたびに、彼は少し不満そうな顔をした。
「間に合っただろ」
それが、いつものやり取りだった。
周囲の顔ぶれは変わっても、彼の仕事ぶりは変わらない。
ぎりぎりまで動かず、最後には間に合わせる。
「ギリギリの魔術師」という呼び名も、いつしかすっかり定着していた。
そして彼は、そのまま数十年を勤め上げた。
……
そんな彼にも、ついに「ギリギリの魔術」が通用しない日が訪れた。
退職の日のことである。
最終出社日。
引き継ぎは終わった。
机も片づいた。
残していた仕事も、すべて処理した。
時計を見る。
15時30分。
定時まで、あと2時間。
彼は少し困った。
こんなことは、初めてだった。
……
彼の「ギリギリの魔術」は、先送り癖ではなかった。
待てば判断材料が増えるものは、ぎりぎりまで決めない。
待てば分かることを、分からないうちに決める方が怖い。
その代わり、できる準備は早く始める。
状況を整理し、選択肢を増やし、うまくいかなかった時の次の手も用意する。
コントロールできるものは、先にコントロールする。
それでもまだ読めないものだけを、最後まで残す。
そして、これ以上待てないという瞬間に決める。
それが、彼の「ギリギリ」だった。
……
ただ、この日は最終出勤日だった。
来週の案件もない。
来月の予算もない。
次の四半期もない。
会社員として、その先に判断すべき仕事がもうない。
待つ意味のあるものが、もう何も残っていなかった。
「……早く終わりすぎたな」
彼が珍しく手持ち無沙汰になっていると、一人の社員がやってきた。
「最後に、少しいいですか」
「どうした」
「私、会社を辞めようとしてた時あったじゃないですか」
「あったな」
「部長に辞表を渡す直前で気づいて、引き留めてくれましたよね」
彼は少し考えた。
「あと5分遅かったら危なかったな」
「本当にギリギリでした」
「間に合っただろ」
二人で笑った。
しばらくすると、別の社員が来た。
「経費精算、締切の日にいつも声かけてもらってましたよね」
「いや、それ毎月だろ」
「毎月でしたっけ。でも、あの頃ほんと忙しくて、よく処理漏れしてたので助かりました」
また一人やってきた。
今度は部長だった。
「あの大型案件、覚えてますか」
「何件もありますけど」
「みんなそのまま進める空気になってたのに、あなただけが基本的な提案の穴に気づいた案件です」
「ああ、ありましたね」
「しかも、臆せず止めてくれた。あれは半日遅かったら大ごとでしたよ」
彼は笑った。
「まだ半日ありましたからね」
部長は少し笑った。
「昔は……判断が遅い人だと思ってましたよ」
「それはひどいな」
「でも、しばらくすればみんな分かったんです。あなたは、待ってたんですよね。最後まで状況を見ながら」
また一人。
また一人。
昔の部下。
同期。
別部署の社員。
取引先で長く付き合った人まで顔を出した。
彼にギリギリで助けられた人。
彼と一緒にギリギリを乗り越えた人。
そして、たまにどうでもいいギリギリまで覚えている人。
「私の結婚式の余興で歌ってくれた『ギリギリchop』、最高でした」
「あれは結婚式で歌う歌じゃなかったな」
「新郎新婦より目立ってましたよ」
彼は少し胸を張った。
「ぎりぎりつまみ出されずに済んだのは、俺のビートが会場を支配してたからだろうな」
「そこは反省してください」
二人は笑った。
それからも人は途切れなかった。
そして、最後の一人がやってきた。
昔のことを少し話した。
仕事のこと。
失敗したこと。
助けてもらったこと。
最後に握手をした。
「本当に、お世話になりました」
「こちらこそ」
その人が部屋を出ていった。
彼は、最後にもう一度だけ、いつもの癖で時計を見た。
17時29分45秒。
彼は少し笑った。
最後のギリギリだけは、彼が計算したものではなかった。
ギリギリの魔術師は、ギリギリの魔術師のまま、その現役生活に終止符を打った。
……
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