松井優征の「モブ」たち
松井優征の『魔人探偵脳嚙ネウロ』は読者を困惑させる漫画だ。「魔人」と「探偵」という、新奇でも何でもない要素を組み合わせて、ここまでシュールで、そして魅力的に仕上がっている作品というのは他にないのではないか。
『ネウロ』のシュールさがどこから来るのか、と人に問えば、おそらくは「変なキャラクターのせい」だ、という答えが返ってくるだろう。確かに、『ネウロ』の登場人物は敵・味方、登場頻度を問わず、どれもかなり個性的……はっきり言えば「サイコパス」に造形されている。
その最たる例が「犯人」の造形だろう。『ネウロ』は基本的に『コナン』に似たスタイルで話が進んでいくが、どのエピソードでも、犯行を指摘された犯人がサイコパスさを剥き出すシーンが、かなりトリッキーに描かれている。『コナン』でも、時折発生する犯人の豹変が揶揄されることがあるが、『ネウロ』ではそれがほぼ毎回起こっていると言っていい。とりあえず、みんな大好きデイビッド・ライスを例として貼っておこう。

『魔人探偵脳噛ネウロ』はなぜジャンプの異端なのか
ここで考えてみたいのが、「マンガっぽさ」の極致にあるような『ネウロ』が、マンガ作品としてむしろ異端扱いされているのはなぜか、という問題だ。『ネウロ』に出てくる現実ではありえないキャラの造形は、明らかに「マンガっぽさ」の産物だ。しかし『ネウロ』自体はむしろ「ジャンプ的でない作品」として言及されることが多い。「ジャンプの王道にして異端」という意味不明な表現さえされる始末だ。作品自体は「マンガっぽい」のに、他作と比べて「漫画らしくない」と判断される理由は何なのか。
僕の仮説は、「犯人の豹変」が「漫画らしくないマンガっぽさ」(?)を生んでいるのではないか、というものだ。
どういうことか。説明した通り、『ネウロ』では普通に振舞っていた人間が、犯人と指摘された途端、奇異な行動を始める。つまり「モブ」だった人間が、一瞬だけ「ユニークなキャラクター」に変わるのだ。主人公が直面する事件の数合わせに過ぎなかった登場人物が、「犯人」として主人公に匹敵する輝きを得るのだ。
キャラクターとモブの分断
漫画やアニメにおいて、モブキャラは主人公の直面する課題を成立させるため「だけ」に存在している。その存在は書き割りの一部であって、従って大抵は内実も人権もない、矮小な人間として描かれる。例えば、主人公の孤高さを示すために、主人公に対して三秒で思いつきそうな悪口を言うモブキャラを出す、というのは多くの作品に見られる手法だ。もちろんすべての漫画やアニメがそうであるわけではない。しかし少なくともマンガ・アニメ的世界では、萌え属性を持った登場人物が「キャラクター」、萌え属性の見当たらない(ときに醜悪な)登場人物が「モブ」として弁別されてしまう。
しかしもちろん、実際には人間を「キャラクター」と「モブ」に分けることなどできないし、するべきでもない。アニメとか漫画に出てくる人々の不自然さは、そうした分けられないものを分けてしまうあたりにあるのではないか……と僕は考えている(個人的な感想で申し訳ないが、僕はアニメを観て、「世界にはお前らみたいなキャラの濃い人間だけが生きてるわけじゃないんだよ」と反感を覚えることが多い)。
突き詰めれば、「何者か」であり、萌え属性を持つキャラクターと、「何者」でもなく萌え属性も持たないモブが対立し、前者が後者の上に君臨する序列付けがなされているのが、いわゆる「マンガ・アニメ的リアリズム」と言うこともできる。この構造の底にあるのは、人は「何者か」(キャラクター)でなければならないという酷な人間観だ。漫画やアニメの中では、「萌え要素/魅力がないこと」と「何者でもないこと」が等号で結ばれてしまう。だからこそ作者は、人権もクソもないような描き方をモブに対して行使できるわけだ。その結果、「モブ」は「キャラクター」から疎外され、両者の分断はどんどん深まっていく。
ネウロVSマンガ(的な何か)
『ネウロ』が「漫画らしくない」のは、こうしたモブキャラのセオリーを逸脱している点においてだ。デイビッド・ライスが犯人としてサイコパスっぷりを発露している瞬間、彼はもはや主人公に奉仕する「モブ」の位置にはない。れっきとした、人格を持つ「キャラクター」の位置にあり、「何者か」に変身している。『ネウロ』では、こうした「モブ」と「キャラクター」の越境が毎事件ごとに起きている。
それは犯人の描き方だけでなく、ネウロの「食事」の設定にも反映されている。ネウロは事件を解くことを通して「謎」をエネルギーとして吸収する、という設定になっているが、この「謎」は、犯人の犯罪者としての個性や殺人に至るまでの悪意などによって醸成されるものである。ネウロが吸収するのはその人間の「物語」とでも言うべきものだ。創作物におけるモブには本来、物語などない。ないはずのモブから、語るに値する物語を引き出してキャラクターに昇格させる存在がネウロなのだ(ネウロの「食材」への礼儀、ということもできる)。
もちろん、毎回犯人はちょっとだけサイコっぷりを発揮しては退場していく、というのを繰り返すだけだ。その意味では、この作品でも犯人が登場するのはネウロの食事に供されるためでしかなく、モブ(犯人)は主人公に奉仕しているとは言えるだろう。しかし、モブが「キャラクター」になったり、またモブになったりするという往還自体が重要だ。『ネウロ』はその点で、「何者でもない人間」が「何者か」になればいいという、凡庸な「進」化史観を持つ作品ではない。ネウロ(あるいは作者)がモブを単なる背景として扱わず、むしろ主人公たちに匹敵する魅力の源泉であると考えていることを示すセリフもある。
「実は我が輩…まだ人を殺したことがない(中略)少なくとも1人の命を永遠に奪うことは…我が輩は極力避けている。生きてさえいれば…また『謎』を作るかもしれないからだ」
「『謎』を作る」とは、目立たないモブだった人間が魅力あるキャラクターに変貌することだ。ここでネウロは、モブを主要キャラに奉仕させる漫画的人間観にはっきりと異を唱えている。漫画が描けない「モブ」の領域を死の世界として切り捨てることなく、むしろ可能性に満ちた世界として描くというある種の倫理表明のようにも思える。
『ネウロ』の犯人の「マンガっぽさ」は、逆説的に「漫画らしさ」(モブキャラの使い捨て、「衆愚」化)を批判するために必要とされたものなのだ。
こうして考えると、作中後半からネウロの敵として登場するシックスを、モブに人権を与えない「漫画らしさ」の体現者と見立てることもできるだろう。
シックスの提唱する選民思想自体は、異能力を持つ「新しい血族」を偏重し、それ以外の全人類を死んでよいものとするありふれたものだ。しかし、シックス=作者が、新しい血族=キャラクターを尊く描くために、他の全人類=モブを矮小化している……という構図に置き換えることもできる。そして、異能力者としてのアイデンティティを傷つけられた途端に死んでいく「五本指」たちは、まるで自分を社会的に強い「キャラクター」に仕立てようとして自壊していく現代人の写し絵のようでもある。
「全ての人間は私の所有物で、私だけが壊す権利を持っている」と述べるシックスに対し、ネウロは「全ての人間は吾輩の所有物で、吾輩だけがいじくる権利を持っている」と述べる。「マンガっぽさ」はモブを衆愚として描いて「壊す」が、ネウロはモブを「いじくる」ことしかしない。そこには漫画が描けない「モブ」の領域への畏れがあり、その畏れこそが『ネウロ』を傑作たらしめている。
「モブ」を愚かなものとして、「キャラクター」を聖なるものとして差別してしまう「マンガ・アニメ的リアリズム」を、あくまで「ジャンプ」本誌に留まったままで内破しようとしている作家が、松井優征なのだと考えることができるはずだ。
殺せんせーはシックスである
こうして『ネウロ』について考えた上で、松井の中期~後期の作品を考えてみると、『暗殺教室』と『逃げ上手の若君』が、どちらもシックス的な人間観により展開されていることが分かる。
『暗殺教室』が、カルト的すぎた『ネウロ』の反省から、かなりジャンプ向けのマイルドな作風になっている、というのはしばしば指摘される。確かに、『ネウロ』から『暗殺教室』への人間観の後退(そう、後退だ)が、「ジャンプ的なもの」に依っていることは否定できないだろう。そして『暗殺教室』の「ジャンプ化」が何に起因しているかと問われれば、僕は迷わず「モブの描き方」だと答える。
進学校に、成績・素行不良者を寄せ集めた「E組」があって、他の生徒から迫害を受けている。そんなE組の生徒が「殺せんせー」を迎え、彼の暗殺を試みつつ成長していく、というのが主な筋だが、E組が本校舎と離れた辺鄙な立地にあるという設定が象徴するように、主要登場人物としてのE組生徒と、モブキャラとしての本校舎生徒は画然と分けられている。設定の上では、本校舎の生徒(のモチベ向上)のためにE組が存在している、ということにはなっているが、メタ的に考えれば、E組生徒の物語を描くために「悪役」としての本校舎生徒が要請されている、ということは明らかだ。凡庸なモブが「犯人」として一個のキャラクターに進化する、というような現象はこの世界では起こり得ないし、最終的にE組の中には「何者か」である人間しか存在しなくなる。
物語中盤で、本校舎の生徒はE組と和解し、「仲間」になる。しかしそれは、「キャラクター」の領域—『ネウロ』でいう「新しい血族」—が「教室」から「学校」全体に広がったにすぎない。実際、終盤で殺せんせーと引き離されたE組生徒を報道するマスコミと大衆の描写は、ほぼ張りぼてに近く、「衆愚」以外の何物でもない。ここには、ネウロが抱いていたモブ=何者でもない人間への期待や愛情はない。
もちろん、『暗殺教室』は社会不適合者のレッテルを貼られた人間たちの逆襲、とでも言うべき趣旨の漫画であって、「E組」と「モブ」を接近させてしまえば、マイノリティがマジョリティに屈服するというだけのつまらない作品になってしまうのかもしれない。しかし創作物として、主人公たちの共同体の外側に果てしない荒野が広がる世界と、主人公の領域の外側がほとんど存在しない世界の、どちらが豊かと言えるだろうか。『暗殺教室』ではあえて後者を描く選択がなされたのだろうが、その結果は『ネウロ』よりも狭く貧しい世界観への後退となってしまっているように思える。
『ネウロ』から『暗殺教室』へ、ジャンプ的な文法を取り入れた分だけ、『ネウロ』が結果的に持っていた漫画というシステムへの批判意識は失われてしまっている。椚ヶ丘中学校には、「新しい血族」を指導するシックスがややマイルドになった先生がいるだけなのだ。
一応言っておくが、『暗殺教室』は類作に比べれば(そして『ネウロ』に比しても)、人物造形も展開もギャグもはるかに洗練された漫画であって、『ネウロ』の吾台が語っていた、「肉食よりも草食の方がしたたかである」という黒澤明的人間観も(表面的に)より分かりやすく踏襲されてはいる。しかし、その洗練が、「教室」や「学校」の外側を見ないふりをすることによって成立していることを、無視することはできないだろう。
中世版『ネウロ』としての『逃げ上手の若君』
そして『逃げ上手の若君』はどうか。『暗殺教室』が教育論をめぐる漫画であったとすれば、『逃げ若』は史観をめぐる漫画である。事実、作中随所で時代背景についてのナレーションが(巧みな形で)入ってくる。
この作品の舞台である室町初期は、教科書的に講義を入れれば、惣領制の解体・地縁的結合の強化の時代として位置づけられる。そもそも主人公の時行が、他氏排斥に明け暮れた北条一族から切り離され、諏訪大社という疑似家族のもとで成長していく存在であり、この変化を体現している。これをシックス的「キャラクター」主義(他氏及び大衆を排斥する)から、ネウロ的な「モブ」主義(「場」が包摂する大衆を尊重する)への移行と捉えれば、本作は再び「漫画らしさ」の批判を試みている……と言うこともできる。
一旦、『ネウロ』的人間観を歴史的支配観に転回したものとして『逃げ若』を捉えてみたい。
こういう隠れ偉人(引用者注・小笠原貞宗のこと)がゴロゴロいて……日本の歴史を作ってきたのだ
このナレーションが本作の人間観を端的に示している。歴史書に記されない「隠れ偉人」への敬意と言っていいが、本稿の言葉に置き換えれば、「キャラクター」と「モブ」の間を架橋し、両者の序列を無化しようとする試みである。従って本作では、小笠原貞宗や清原信濃守、土岐頼遠といった、教科書には出てこない「モブ」たちが、実に魅力的な「キャラクター」として登場する。
時行は作中、諏訪頼重の庇護を受けつつ指導者として成長していき、人間を扇動したあのネウロの如く、反乱を指導する。中盤以降、史実通り時行は一回は尊氏に敗北し、流浪の人生を始める。しかし本作ではそれは絶望としては描かれない。むしろ、メタ的な歴史の束縛から逃れての、希望に満ちた始まりとして描かれている。つまり『逃げ若』とは、日本史的に「足利政権への反逆者」という「キャラクター」を背負い、あまつさえマンガ的な萌え要素(流浪貴族・美少年設定)をこれでもかと与えられた時行を何者でもない「モブ」に解放する試みなのだ。後醍醐天皇が「汝は持たざる時の方が強い」と述べるのは、単なるハングリー精神の称揚ではなく、「キャラクター」でない「モブ」に可能性を見出そうとする宣言である。
時行が「キャラクター」と「モブ」を行き来しながら活躍する南北朝時代は、「何者でもない人々」が犯人となって輝く、あの『ネウロ』の世界と地続きなのだ。
犯人にあって、バサラにないもの
時行に向けられた「脱キャラクター」的な視線は、『逃げ若』に大量に登場する武人(モブ)たちにも同様に向けられている……と論を進めたいところだが、『逃げ若』の、『ネウロ』的な世界を中世に蘇らせようとする試みが成功しているかどうかということには、疑問符をつけておきたい。時行を「キャラクター」から解放する試みはともかく、本作のバサラたちは「キャラクター」から疎外されたままなのではないか。
『ネウロ』における犯人も、『逃げ若』におけるバサラや武士たちも、『モブ』の代表として(そして彼らを「衆愚」として単純化しないための回路として)描かれている。しかし結果としては、バサラは犯人のオルタナティブたり得ていない。
バサラと犯人の一番大きな違いは、「何者でもない存在」との往還がしっかり作品中で描かれているか否か、ということに尽きる。
『ネウロ』では、存在感の薄いモブが、犯行を指摘された瞬間に「犯人」という一個のキャラクターに変貌し、そしてネウロに倒されることでまたモブに戻る、という展開が採用されていた。これは、何者でもない「モブ」が「キャラクター」に変化すること、そして「キャラクター」にさせられてしまった人間が「モブ」に戻ること、その両方を肯定するために必要とされる儀式であったはずだ。
対して『逃げ若』はどうか。確かに瘴奸をはじめとするバサラたちは、『ネウロ』の犯人と同じく、何者でもなかった「モブ」が「キャラクター」に変化した存在だ。しかし、彼らが何者でもなかった、「モブ」だった過去は、あくまで設定として説明されるだけだ。瘴奸が武家の理に失望した過去も、北畠顕家が東北武士と信頼関係を築いた経緯も、戦闘や対話の中に回想描写として挿入されるだけで、それは後付けのキャラクターとしてのデータベースでしかない。『ネウロ』が、モブが犯人に変貌する瞬間をバッチリ捉えていたのとは確実に違う。
「もう元には戻れない」吹雪
また、『逃げ若』では「何者か」(キャラクター)になった者が「何者でもない存在」(モブ)に戻ることも起こらない。時行の前に現れるバサラは、もちろん「敵」なのだから最終的には時行に敗れるのだが、その末路は、雌伏を経ての再登場があるかないかの差はあるが大体死亡する(ことが仄めかされる)。少年漫画としては普通だが、あのネウロが、モブに関して「生きてさえいればまた『謎』を作るかもしれない」と言っていたのと比べるとどうだろうか。シックスの「五本指」がネウロたちに敗北した途端に死んでいったのを想起させてしまう。
この問題に関して象徴的なのが、登場人物の一人「吹雪」だ。彼は物語序盤で時行の郎党に加わるが、中先代の乱で尊氏のオーラ(w)に魅入られて寝返ってしまう。尊氏陣営に迎えられた彼は「高師冬」という姓名を与えられ、元来持っていた支配者になるという野心を際限なく成長させていくことになる。
吹雪(高師冬)は明らかに「キャラクター」の不可逆性を象徴した存在だ。彼は立派な姓名を得て少年漫画の主人公的に「成長」するわけだが、それがちっともポジティブに描かれていないことは言うまでもない。そして彼は雫に「もう元には戻れない」と評され、自身も時行側に復帰することを拒否する。この先の展開で彼が逃若党に戻るのか、死ぬのか、はたまた宙ぶらりんで終わるのかは不明だが、ここで「キャラクター」>「モブ」という価値観が批判的に描かれつつも、それを覆すことの難しさが抉り出されていることは間違いない。
「キャラクター」になって(させられて)しまったバサラに「モブ」に戻るという選択肢は与えられていないわけだ……というか、時代が許さないのだろうが。
『逃げ若』というプロジェクトは、『ネウロ』的な人間観を自覚的に、中世の世界に再展開しようとしたように思える。しかし結果として、『逃げ若』は、そして松井優征はシックス的な人間観から「逃げ」切れてはいないのだ。
中世ではなく、21世紀に
こうして考えてみると、中世を舞台に「モブーキャラクター」の往還を描こうとする試みそのものに限界があったのではないか、と思える。現代でも、(宇野常寛が『庭の話』で指摘するように)共同体の中で「キャラクター」を示さなければ生き残ることができない、という嫌な現実が存在する。近代以前はその傾向が今と同じく、あるいはそれ以上に甚だしい時代であって、決して「マンガっぽさ」の外部にあるユートピアではないからだ。
もちろん今でも、「キャラクター」であることを推奨(強制)する「マンガっぽさ」は強い支配力を誇っている。その重力は増大している。「マンガ・アニメ的リアリズム」が単なる「お約束」化し、マンガと対極にある(と思われている)小説までがそれを取り入れ始めて久しい今、南北朝時代に後退して「マンガっぽさ」から自由な場所を描こうとする意図が松井にあったとすれば、それは成功していないが十分理解できる。
しかし、十世紀近く遡った中世にロマンを全うするバサラたちより、21世紀をうごめく犯人たちの方が、人を「キャラクター」にしようとする想像力から解放されていることを、過去の松井作品はすでに示してしまっているのだ。世界にはバサラやE組の生徒だけでなく、世間的には凡庸だと見なされながら、いつ「犯人」になるかもしれない、あるいはならないかもしれない
予備軍的な人々が大量に存在している。その事実から、松井優征も含めて僕たちは「逃げる」ことはできないのだ。
