【短編小説】『桜が過ぎても花に酔う』 ハルとフユの物語・フユの目線
3月の終わり、雨の夕方。
私はバスに揺られていた。
仙台市に向かう、高速バスだ。
乗客はまばらで、ほぼ全員が二人掛けの席を一人で使っていた。誰も咎めない。
私もまた、例に漏れず甘えていた。
車内は静かだった。
スマホを見る人、寝ている人、読書をする人。
高速道路を走るゴオオーという走行音の他は何もなかった。
私はこのバスに乗り込む前、急に降り出した雨のせいで濡れていた。
リュックからタオルと、もっと大切なそれを取り出した。
フィルム式の一眼レフカメラ。
──大丈夫、濡れてはいない。
安堵のため息を吐いて、雨水で重くなったキャップを脱ぐ。自分の髪や、服の水滴を払いはじめる。
そして振り返る。
バスに乗る前の出来事を。
今日1日の、出会いと別れを。
昼下がり。
河川敷の土手に座って、桜並木を見ていた。
旅先の桜も悪くない。
美しいものはどこにあっても、美しい。
だけど。
今日で終わりにするつもりだった。
景色に向かって、カメラを構えた。
画角に満開の桜を収め、シャッターを切る。
まだフィルムに余裕はあった。
ただ、もう辛い。
約束した場所に訪れるたび、胸が苦しくなる。
フィルムがいっぱいになるまでは帰らない。
そう決めた1ヶ月前の旅立ちの日が、はるか昔の記憶のように思えた。
今日は特に、彼のいない隣を強く感じる。
ここはよく似ていた。景色も、空気も。
あの日、二人で過ごした桜並木と。
耐え難い気持ちが込み上げてきて、座っていられなくなった。
そのとき。
後ろでキキッ! と、自転車のブレーキの音。
そのあとにドサッという、荷物の重さを感じる、落ちた音。
視線はすでに、音の方にあった。
目に入ったのは、土手を滑り落ちてくる、ビニール袋だった。中のものが、今にもこぼれ落ちそうになっている。
私の側まで来たとき、自然と手を伸ばしていた。
「すみません!」
追いついてきたのは、落とし主の声だった。
その声に、不意に胸が鳴った。
そっくりだった。
『彼』の声と。
あまりにも意表を突かれた私は、混乱する気持ちを言葉にしていた。
「ちょうどいいところに、つまみがきた」
目の前の男性は、「は?」という言葉を口にし、顔もそれを物語っていた。
当然のリアクションだった。
そのあと、首を傾げて荷物を受け取り、立ち去る。
そう思っていたのに、
「昼間から花見酒ですか」
彼と同じ声で、言いそうな皮肉を言ったのだ。
瞬間的にそれが嬉しくて、驚いて、
「酒でなくとも花に酔う」
最後の頃、食事制限がされていた頃のセリフを口走っていた。
そして、飲みかけのジュースを差し出した。
目の前の男性が合わせてくれなくたっていい。
咄嗟に出た私の行為は、乾杯ではなく、
──『彼』への献杯だった。
差し出した缶を見て、目の前の人は目を丸くして、ニヤッと笑った。
私が助けた袋からコーヒーの缶を取り出し、私の缶にぶつけた。
ごめんなさい、見ず知らずの人。
急に私の思い出に参加させてしまって。
21歳の私より、少し年上に見える男性はその後、
どこかに向かっているのかと訊いてきた。
桜を追っていると答えた。
嘘は言っていない。
約束の旅であり、事前にAIのGeminiと計画した桜前線巡りでもあるから。
その後も会話は続いた。
名前はハルキだと言った。
名前まで似ている……。
ちゃんとフユカと本名を伝えた。
それなのに、ハルにフユは出来過ぎだとか、疑って笑っていた。
ハルキさんはこの地域の話をしてくれた。
牛久のラーメン屋が有名で美味しいとか、やたら大きい大仏があるとか、少し気になる訛りは茨城弁だろうか? 彼と違う面もまた、良い。
そんななか、訊いてきそうな問いはなかった。
「旅の理由は」とか、
「ライン交換しよう」とか。
だから話し続けられたのかもしれないし、訊かれるまで話していたのかもしれないし。
楽しんでいる私がいた。
それに気づいた瞬間。
嫌な気持ちになった。
彼を裏切ろうとしている自分に。
笑って、気分が良くなっている自分に。
空に赤みが差す頃、私は言った。
「そろそろ行きますね」
なるべく冷静を装って。
時間だから、と思ってもらうために。
次に行くところなんてないのに。
ハルキさんは特に引き止めもせず、送ってくれると言ってくれた。
もう夢の時間は終わりという私と、今日だけはという私が、揺れた。
「お言葉に甘えて、お願いします」
素直な気持ちに従った。
高速バス乗り場ですと行き先を伝えた。
「すぐそこだよ」という口振りだった。
夕暮れの河川敷を二人で歩く。
これもまた、昔過ごしたあの日だった。
『彼』が言っていたいくつかの花の名前を、Geminiに教わったことにして話した。
ハルキさんの顔が驚いたり、笑ったり、純粋なんだろうな、と感じた。
会話が途切れになってきた頃。
「好きな人はいるんですか?」と尋ねた。
少しの間の後、
いないと返事があった。
いても、いなくても、あるいは結婚していても、どれでも良かった。
私が、彼のことを話しておきたかったから。
「私は、いました」
「今は遠くにいて、たまに写真を見せています」
話したいくせに、いざ口にすると、はっきりと言えない自分がいた。
『誰が』とも、
『何で』とも言わない。
人に伝えるには不十分すぎる告白だったと、すぐに後悔した。
ただハルキさんは、
「きっと喜んでいると思う」
そう言ってくれた。
不意に泣きそうになり、地面を見た。
アスファルトにぽつぽつと増える丸は、私の涙ではなく、降りはじめの雨だった。
──カメラ。
リュックにすぐさま入れた。
それを見届けたハルキさんは、急ごうと目で促した。
河川敷の終わりに見えたバス乗り場には、すぐに気づいた。雨を凌ぐものがないことにも。
時刻表を確認するハルキさんと、スマホで時間を見る私。
次のバスの到着は──1分後。
すぐだった。
早すぎる。──でも、今なら言える。
──仙台に行くつもりはないです。
──予定はなくなったんです。
──もう少し、あなたと。
「このバスに乗ろう」
もどかしい時間に答えを出したのは、私ではなくハルキさんだった。
「はい」
もやもやを打ち消すように、返事をした。
バスが近づいて来ていることはわかっていた。
ただ、ハルキさんを見ていた。
バスが背後で停まった。
ドアが開く音が続いた。
「ハルキさん」
ホッとしたような、優しい笑みだった。
名前を呼んで……どうする?
ハルキさんの髪から、雨粒が滴っていた。
わからないまま、リュックからタオルを取り出し、渡した。気持ちごと押しつけるように。
それしかできなかった。
「傘がなくて、ごめんなさい」
それしか言えなかった。
バスに乗り込んだ。
ドアが閉まる。
私のタオルを持たされたハルキさんは、優しく手を振る。
つられるように私も。
「また、いつか」
小さい声で、別れを告げた。
それが、今さっきまでの、今日のこと。
水を払い終えた私は、座席に深く沈んだ。
「ずるいな、私は」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
タオルという、形に変えた気持ちの一つを、ハルキさんに手渡した。
再会の理由を残した。
ふう、と、一つ息を吐いた。
終わりにするはずの旅は、まだ終わらない。
「約束だからな」
そう言っている『彼』のしたり顔が浮かんだ。
苦しくても、約束だから。
フィルムがいっぱいになるまでは。
約束はもう一つあった。
彼が深い眠りにつく前に、彼から一方的に渡された約束が。
そっちは絶対無理と、放棄していたけど。
今日が終わって、絶対無理の「絶対」くらいは外れたのかなと、ずるいまま、私は思う。
二人の顔が浮かぶ。
私の旅は続く。
答えは見つかるのだろうか。
だけど。
苦しくなりたくない。悩みたくもない。
窓の外の景色に目を向けた。
ハルキさんと歩いた街は、とっくに見えなくなっていた。
目を瞑り、思い出す。
フユカ。
もし僕がいなくなっても。
必ず、他の誰かを。
誰かと。
もう一度。
いつかまた、その日が来るのか。それとも。
考えてもきっと、誰にもわからない。
桜を見て、あなたを想い、ハルキさんと出会った。
今日はここまでで、十分だろう。
気持ちを閉じるため、半乾きのキャップをアイマスク代わりに顔に当てようとした。
ひらりと、一枚の桜の花びらが、膝の上に落ちた。
それを見て、言葉が浮かぶ。
美しいものは美しい。どこにあっても。
確かなことは、それくらい。
今はまだ、目に映る花に酔っていたい。
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