【短編小説】『酒でなくとも花に酔う』 ハルとフユの物語・ハルの目線
3月の終わり。休日の昼下がり。
河川敷を自転車で走っていた。
これといった理由はない。
ただ、帰り道を変えてみただけだった。
川を挟んだ両岸の桜並木は満開だった。
視界を埋める淡いピンクを横目に、適当にペダルを漕いでいると、
「うおっ」
ふと、自転車が跳ねた。
小石でも踏んだか?
理解する間もなく、ハンドルに掛けていたスーパーの袋が浮いて、外れた。
掴むことはできず、地面をバウンドして土手に転がっていく。
慌てて自転車から降りて、取りに向かう。
転がる袋が、土手の半ばで止まった。いや、
誰かの伸ばした手がそれを止めていた。
「すみません!」
声をかけながら土手に座るその人に近づいた。
「ありがとうございます……」
キャップを被った相手の顔を見た。
女性だった。
「ちょうどいいところに、つまみが来た」
「は?」
女性はいたずらっぽい笑みでそう言った。
同世代か、少し下の大学生くらいに見えた。
「いや、オレのですけど」
「冗談ですよ」
笑みのまま、袋をこちらに渡した。
なんだかからかわれているような気がした。
女性の持つ缶を見て、思わず、
「昼間から花見酒ですか?」
嫌味が口に出ていた。
だが彼女は動じない。
「酒でなくとも、花に酔う」
缶をこちらに突き出した。
まるで乾杯を待つような姿勢だった。
「レモンスカッシュです」
なぜか自慢気な飲み物のアピール。
俺は笑った。嫌な気分はなくなっていた。
座って、袋の中のボトルコーヒーを一つ取る。
突き出されたレモンスカッシュの缶に、
ゴン、と軽く合わせた。
「酒でなくとも、って何? 誰かの名言?」
「いえ、今思いつきました」
さっきから、肝が据わっているというか、
どこか掴みどころのない返答だった。
でも、面白い。
彼女は黒のキャップに、モスグリーンのジャンパー、ジーンズにスニーカーという、登山客のような格好をしていた。
キャップに収まりきらない栗色の髪は、ジャンパーの上で春風に揺れていた。
それを見て、自然と言葉が出ていた。
「この辺の人じゃないよね?」
女性は、川向こうの桜並木に目を向けたまま、
「はい」と頷く。
「どこかに向かっている途中?」
それにも頷く。
なんだか野暮なことを聞いている気がして、それ以上はやめた。
そもそも、なんで俺は隣に座っている?
ナンパじゃあるまいし。
立ち上がろうとした。
「今は桜を追っています」
彼女の言葉で、立ち上がるのをやめた。
「……桜を追う?」
桜並木からこちらに目を移していた。
オレに、というより、『つまみ』に。
オレはビニール袋から菓子を取り出し、開ける。
彼女はそれをひとつつまんでから言った。
「はい。開花時期に合わせて、次は仙台に向かいます。千葉、茨城には先週から滞在していました」
なんだか時々、AIみたいな受け答えだ。
いちいち面白い。
「次は仙台ってことは、その次もあるの?」
もうオレは、彼女の前に袋の中身を差し出していた。餌付けじゃないんだけども。
「はい。仙台の後は新幹線で青森の弘前市、その後は札幌を目指します。桜に追い越されないように、ちゃんと計画しています」
やたら具体的だ。
菓子を食べる彼女を見て気づいた。
胸元にぶら下がっているのはカメラだった。
「写真家さん?」
尋ねると、彼女はぶんぶんと首を振った。
「ただの旅人です」
旅人に“ただ”も何もないだろ。
この子は一体、何者なんだろう?
「名前教えて。オレはハルキ」
彼女はレモンスカッシュで口を潤してから言った。
「いい名前ですね。私はフユカです」
フユカ。ハルキにフユカ。
何かとってつけた感が。
「また、今思いついた名前じゃないの?」
疑うオレに対し、
「本名ですよ?」
「まあ、どっちでもいいけど」
二人で笑った。
この辺の田舎っぷりとか、どこのラーメン屋が美味いとか、他愛もない話をしていた。
菓子の袋が二つ、三つと空になる頃、昼の明るさに夕暮れの朱が混じっていた。
「そろそろ行きますね」
フユカが言って、立ち上がった。
オレもそれに倣い、立ち上がる。
「自転車の後ろで良ければ送ろうか?」
「ハルキさん」
珍しく少し真面目な目。
「自転車の二人乗りは道路交通法違反ですよ」
──そこは常識人なんだ。
吹き出すオレに、フユカも笑顔で、
「でも、お言葉に甘えて、歩きの送りをお願いします」
その言葉に頷いた。
土手を上がり、自転車を押し始める。
隣のフユカに訊く。
「──で、どっち? 泊まってるところ? 駅?」
「えっと、実は、茨城県は今日までで、これから高速バスで仙台なんです」
「え? これから? 今日が最終日だったの?」
「はい。計画なので」
「はは、しっかりしてるんだか、してないんだか。じゃあバス乗り場まで送るよ」
もう歩き出していた。
道は簡単だ。
河川敷をこのまままっすぐ。
次の国道と重なる橋のたもとに、高速バス乗り場がある。
「さっきから計画、計画って、どういうこと?」
「ジェミニに訊いたんです。レモンスカッシュを美味しく飲める桜の名所って」
「ジェミニって、ChatGPTみたいなやつ?」
「そうです。教えてくれた場所、全部行ってみたいと思って、計画を立ててもらいました」
「そりゃジェミニも大変だな」
「他にもいろいろ教えてもらいました。桜の後に咲く花を。足利の藤、鎌倉の紫陽花、京都の蓮……」
フユカは指を折りながら、記憶を辿り、花の名前を並べていた。
「すごいね。まさかそれも全部見るつもり?」
その問いに、フユカは迷いなく、
「はい」と答えた。
ふと、言葉が浮かんだ。
「……桜でなくとも、花に酔う」
「え?」
「なんでもないよ」
ところで──。その後が続かない。
訊きたいことはいろいろあった。
雑談で盛り上がってる場合じゃなかった。
旅をする理由。
職業。
どんな過去があったのか。
あと、
恋人はいるのか。
肝心なことはいつも言えない。訊けない。
言葉が詰まる。
それを見透かすかのように、フユカが口を開いた。
「ハルキさん、好きな人はいますか?」
突然の問いに、すぐに言葉が出なかった。
「あー、好きな人か。今はいない。残業ばっかりでそれどころじゃないな。フユカさんは?」
「私は、いました」
いました。また意味深なことを言う。
フユカは続けた。
「でも今は遠いところにいます。だから好きなものの写真を撮って、見せています」
少しの間を置いて、
「……そっか。きっと喜んでると思うよ」
何もわからないまま、そう言っていた。
「ありがとう」
小さなお礼が耳に入った。
それが合図のように、雨が降り始めた。
パラパラとした小雨だが、風も出てきて、本降りが近い気配がする。
バス乗り場まではもう100メートルもなかった。
フユカを見た。
首に掛けていたカメラを、リュックに入れていた。
どのみち、濡れさせるわけにはいかない。
二人とも早足で向かった。
着いた乗り場には、待っている客はいない。
そして、雨除けもない。
到着予定を確認した。
「次は、16時30分」
今は?
「今、29分です」
フユカが答えた。
あと1分。
その後の到着は?
確認する。
18時30分。
2時間後。──さすが田舎だ。
選択の余地はなかった。
「このバスに乗ろう」
フユカに伝えた。
彼女は何かもどかしいような、そんな顔をしながらも「はい」と答えた。
お互い、言いたいことがまだある。
もう少し話せれば。
多分、そう思っているのはオレだけじゃなかった。
ただ、バスはきっちりと1分後に到着した。
「ハルキさん」
バスのドアが開く。
フユカは自分のリュックを急いで開けて、タオルを取り出した。
「傘がなくて、ごめんなさい」
押しつけるように、オレに渡した。
すぐにバスに乗り込んだ。
「フユカさん」
プシュ、という音でドアが閉まった。
ドアのガラス越しにオレとフユカは向き合う。
お互い自然と、小さく手を振る。
フユカの口が動いていた。
もちろん、聞こえない。
余韻もなく、バスは出発した。
排気ガスの匂いと、雨音だけが残っていた。
「ま、た、い、つ、か」
口元の動きから読みとった言葉。
フユカに渡されたハンドタオルを見た。
「これでどうしろっていうんだよ、ずぶ濡れだよ」
思わず苦笑が漏れた。最初から最後まで、ペースを乱されっぱなしだった。
雨に濡れたタオルから、ひらりと何かが零れ、足元の水たまりに落ちた。
それは、一ひらの桜の花びらだった。
またいつか。
会えたら、タオルを返そう。
話の続きをしよう。
またいつか。
会えたら、声を掛けよう。
こんにちは、オレのこと、覚えてますか?
──違う、違う。
水たまりの上で、花びらはゆらゆらと揺れていた。
今度はオレから言えばいい。
──今もまだ、花に酔っていますか?
って。
フユ目線と合わせてお楽しみください👇️
はらとけい様の企画された、せりふ三題噺に挑戦させていただきました。
お題「新幹線」「花びら」「レモンスカッシュ」
