短編「悲しみの風景」
「じゃあ、ここをもう一回読んでみて」
窓からオレンジ色に錆びた光が差し込んでいる。そんな二人きりの教室には、どこか馬鹿らしくて、それでいて真剣な空気が充満していた。彼女の整った横顔が夕陽と少しずつ溶け合って輪郭をぼかしていく。いたたまれなくなった僕は、彼女の膝上にある教科書を見ながら、口を開いた。
「さ、さ……最後にっ、愛は勝つ……」
「すごい! 今度は一気に言えたじゃん!」
隣の彼女が、椅子から立ち上がりながら言った。その衝撃で、僕の心は膝と一緒に震え上がる。もう僕は自分が何を言ったのかはもう忘れてしまい、代わりに理科の時間で見た心臓の収縮を模したCG映像を思い出していた。
「その調子だったら喋り方も直るよ! きっと!」
視線を上げると、彼女はさっきまで見せてくれた国語の教科書を掲げていた。上下逆さだった。
僕は生まれつき、話すのが下手だ。喋る内容は頭に浮かんでいて、口を動かすまではスムーズにできるのだが、肝心の喉が全く動かない場合がある。僕の中で出にくい単語が毎秒ランダムに決められているみたいだ。運が悪いと何も言えない。だから友達なんていなかった。何も察してくれない周りを恨んでいた。
でも、彼女は違った。
最近転校してきた彼女はキラキラ光っていて、僕なんかにも話しかける陽キャだ。そして僕が上手く話せないと知ると、なんと矯正を一緒にしようと持ちかけてくれた。聞けば親が医者らしく、正しい発声練習を続ければ、治る可能性があるとのこと。
そういうわけで、僕には友達が一人増え、放課後の教室でトレーニングを行うようになった。
迎えがあるらしい彼女と分かれ、僕は一人で下校していた。もう季節は秋に差し掛かっていて、空が暗くなるのが早まっていた。ひび割れたコンクリートの上を足早に進む。
通りがかったベンチの下に、黒いまん丸を見つけた。しゃがみ込んで再び見てみると、それは香箱座りで背中を丸めた黒猫だった。このあたりに猫がいるなんて珍しい。そいつは僕を見ながら「がっ、が……がぎゃあっ」と言った。
音がひどすぎて、少し笑いそうになった。なんだ、まともに声を出せないのか。
そうして、どうしようもなく情けなくなって、弁当の余った唐揚げをひとつ、そいつの前に落とした。動物に餌をやるとは良くないとか、そんな利口な考えは浮かばなかった。
落ちたそれに鼻を当てて、何度も確認する黒猫。そしてやっと信頼したのか、少しずつ、ゆっくりと噛り始めた。
醜くて見ていられなかった。立ち上がった僕は再び帰路についた。
やはり彼女は僕に惚れていると思う。あれからトレーニングを一緒に続けて気づいた。この昼休み、さっきから何度も視線が合うのだ。そもそも週一とはいえ半年ほど僕と朗読の練習を続けているのだから、事実だと思う。彼女が転校してきた時、きっと僕に一目惚れしたけど、話のきっかけが掴めない。いざ勇気を出して話しかけてみると僕を吃音だと知り、トレーニングという理由をつけて放課後に2人きりになる。なるほど、そうなると親が医者だというのも怪しく感じてくる。医者の子なら、もう少し品性を感じさせてくれても良いはずなのに。まあ、僕は人を性格で判断できる人間だから気にしない。嘘をつかれても、それが人を傷つけないのなら僕は許してあげる。ううん、席が遠くて会話が聞こえない。
ああ、ああ! 今、手を降ってくれたぞ。僕にだ、そうに違いない。僕が彼女のことを考えている時、彼女だって僕を考えている証拠だ。これは相思相愛だ。彼女は僕が好きなんだ。言葉に出せないだなんて、奥手なんだなぁ。それなら、僕から言ってやろう。今度の練習日に、想いを伝えるんだ。
再び一人の帰り道。いつものコンクリートの上を歩いていると、足元に猫がすり寄ってきた。黒猫だ。あの日からなんとなく面倒を見てきたので、妙に懐かれている。右足を上げて蹴り飛ばした。宙を舞って、脇の草むらにまで飛んでいった。
「がぎゃん」
黒い塊は捨て台詞を吐き、姿を消した。
ざまあみろ。もうお前は必要ない。こんな僕にも彼女ができて、いつかマトモに話せるようになる。お前はどうだ。「にゃん」と鳴けず、ただの一人ぼっち。出来損ないが。二度と近づくな。
「うんうん、だんだんと滑らかになってきたね」
彼女の柔らかい声が僕を貫いた。最初の頃よりもやり取りはスムーズになっていて、まるで熟年夫婦だ。僕の確信は絶対に間違っていない。
そして僕はむずがゆい両腕を後ろに回して、口を開いた。
「……お、俺は――き、君のことが……す、好きだ。」
「やった! 好きがほとんど詰まらなかった! 今の感じでもう一回言ってみよ?」
彼女が去った後、こみ上げてくる吐き気に襲われ窓枠を掴んだ。校庭には小走りの彼女がいた。その先の校門には見たことない制服の男がいた。
一人の帰り道。鳴いても泣いても誰も来なかった。
