【短編集-花の冠】 第十二話『小屋』
小屋
橋の先には音が一つもなかった。
植物もなく、鳥の鳴き声もない、静寂の世界。
まるで時間が停止しているような空間が、
そこには広がっていた。
しかし、風はあった。
それは開け放たれた小屋の扉から吹いていた。
まるで、そこから時と命が流れ出ているように。
「……行こう」
グラージュがそう言うと、
サリムは無言で、グラージュを追い越し、
小屋の中に入っていった。
「カチカチカチカチ」
大きなネジマキ式の時計が「今」を刻んでいた。
壁の本棚には、書物がきれいに整頓され、
暖炉の奥には火種がほのかに残り、床にはほこり一つなかった。
机の上では、大きな本が、
誰かの手を待つように、風に頁をふわりと揺らしていた。
しかしそこに、人の気配はなかった。
サリムの足音が、机の前まで進む。
本へ手を伸ばすと、風がぴたりと止み、本の頁は動きを止めた。
「グラージュ、ここにはなんて書いてあるの?」
グラージュが隣に立ち、開かれた頁をのぞき込む。
「……これは、俺たちの国の文字だ」
彼の声には驚きと、恐れがあった。
滅ぼされた国の、失われたはずの文字。
焼き尽くされたはずの言葉が、今ここにあった。
「お前たちは、風の先を求めるか?」
グラージュのその言葉に、サリムが顔を上げる。
「……風の先……?」
グラージュは頷いた。
「……“サリム”と書いてある。「風の先」という意味を持つ花の名だ」
グラージュが一枚頁をめくる。
「未来に進むとき、人は過去を見つめる」
グラージュがもう一枚めくる。
「人は、何をもって真実とする?」
そのとき、「カチリ」と音がした。
まるで歯車がかみ合ったように。
グラージュが周囲を見渡し、床に目を留めた。
「……そこだ」
床の一部が、不自然に盛り上がっている。
グラージュはかがみこみ、その板をはがした。
そこにあったのは、鎖につながった鉄の輪だった。
「図書館と同じだな」
グラージュが膝をつき、輪を握り鎖を引いた。
「カチリ」
その次の瞬間、暖炉の中の薪が崩れた。
その奥に、地下へ続く、石の階段が現れていた。
「図書館と同じだ」
サリムの言葉に、グラージュは無言でうなずく。
冷たい風が、階段の底から吹き上げていた。
「……風が俺たちを呼んでいる」
グラージュの言葉に応えるように、階段の底から、風がふたたび吹き上げた。
ふたりは顔を見合わせると、言葉を交わさぬまま、音を殺すように、そっと階段に踏み出した。
二人の足音は消え、部屋の中には時計の音だけが残されていた。
机の上の本は、いつの間にか閉じられていた。

《一章 終》
