【短編集‐花の冠】第十六話『記録の村(二)』
記録の村(二)―サリム―
朝。
小さな鳥のさえずりが聞こえていた。
父は裏庭で鍬を振るっていた。
母は洗濯物を干しながら、空を見上げていた。
幼い僕は、草むらの中を歩き、白い花を見つけて、摘んでいた。
「白い花が好きなのね」
母がふっと笑った。
とてもうれしそうに。
家の中には、昨日と同じように花瓶があった。
その中の花も、まだ咲いていた。
部屋は陽だまりのように明るく、
風がカーテンを優しく揺らしていた。
僕は、言葉にならない気持ちを、胸の奥で押し殺した。
母の手が花を受け取る仕草。
父の声に滲むあたたかさ。
幼い僕に注がれる視線の、そのやわらかさ。
それを、僕はなぜかずっと“持っていない”と思い込んでいた。
「グラージュ、これが本当に“記録”だとしても……」
「……ああ、信じたくなるな。これはまだ“生きている”って」
「変えられると思う?」
そう問いかけると、グラージュは黙り込み、遠くを見つめた。
空の端に、ひとすじの雲が、ゆっくりと流れていく。
「わからん。ただ……」
「ただ?」
「……“記録”というには、整いすぎている気がするんだ」
彼はそう言い、窓から部屋を覗き込んだ。
「埃ひとつない本棚。燃え残ったはずの暖炉の火種。
さっきの花の匂いも……お前が“記憶していた匂い”と、まったく同じだっただろう?」
僕はうなずいた。
「誰かが、“そうあってほしい形”に、記憶を整えている気がする。
……記録そのものが、意思を持っているのかもしれん」
真剣な目で僕を見て、それから続けた。
「こんなにも温かく、美しいものが、どうして残されているのか……
まるで、誰かが“見せようとしている”ような気さえする」
その時、地の奥で、かすかに何かが鳴った。
雷のような、金属のような音。
「……いまの、何?」
「気のせいかもしれん。でも……そろそろ、何かが……」
僕は、幼い僕が摘んだ花を見つめていた。
小さな手に握られたそれは、揺れもせず、ただ静かに咲いていた。
母の笑い声が、ふわりと風に混じる。
「今日も、いい日ね」
その言葉は、大気に溶けるように消えていった。

《続く》
