【短編集‐花の冠】第二一話『風を運ぶ者(三)』
風を運ぶ者(三)―グラージュ―
風が吹いた。
空気が一瞬、柔らかく揺らいだかと思うと、目の前の光景がゆっくりと変わっていく。
焚き火の残り火が消え、影が濃くなる。
湿った土の匂いは薄れ、代わりに、乾いた草と煤の匂いが鼻をかすめた。
「ここは……また、別の夜だね」
サリムの声が、背後から小さく響く。
俺は頷いた。だが、それはもう俺の身体ではなかった。
ただの観察者。記憶の中の景色を歩くだけの影。
視線の先――俺と、フェイルがいた。
ふたりは焚き火の前にいた。野営地の外れ、風を防ぐ岩陰。夜風は冷たく、フェイルが手をこすりながら薪を組んでいる。
「ねえ、グラージュ」
サリムが隣に並ぶ。
「これって、グラージュが本当に覚えてるの?
それとも……別の人の記憶?」
「……わからん。ただ、確かにあった夜だ」
火打石の火花が飛び、フェイルが小さく笑った。
「この音、好きなんだよな。生まれる音って感じがする」
記憶の中の俺は黙って火種をあおぎ、やがて炎が静かに広がった。
「……フェイル、火起こしが上手だな」
「褒めた? いま、それ褒めた?」
「言っただけだ」
ふたりが焚き火を囲み、腰を下ろす。フェイルが干し肉を袋から出し、無言で俺に差し出すと、俺は少しの間だけ動かずに見つめ、やがてそれを受け取った。
「グラージュ……うちの家ではな、火は“人の心”だって言われてた。扱いが粗ければ、嫌われるんだと」
「……そうか」
「グラージュ、お前さ」
火が少しずつ灯っていく中で、あいつはぽつりと口を開く。
「怒ってるのか?」
「……何にだ」
「全部さ。国に、戦に、奴隷って呼ばれてたことに――そして、俺に」
俺は答えなかった。けれど、火がはぜた音が、ちょうどその沈黙を埋めていた。
景色の中で、二人の兵士は、火を見つめている。
その沈黙のなか、サリムが俺に問いかけた。
「なんで一緒にいたの?」
俺は答えられなかった。だが代わりに過去の俺の声が、その沈黙を埋めた。
「……怒ってない。諦めてるだけだ」
「グラージュ、諦めるのは、期待してた証拠だよ。人に。国に。……そして自分にも」
風が、焚き火の火を揺らす。影がちらちらと踊り、フェイルの顔が一瞬、こちらを向いたように見えた。
だが、それは幻だ。記憶の断片に過ぎない。
「……これが、あの男の残した風か」
「ねえグラージュ」
サリムが言った。
「……フェイルのこと、好きだった?」
サリムの声は、もう一度火にあたるように、静かに胸に灯った。
焚き火の炎がふっと揺れた。
《続く》
