頸損の指先のサバイバル日誌 ―― 冷やし中華とグミと、6割の奇跡
はじめに
何気ない日常のあちこちに、目に見えない地雷が埋まっている。
オフィスへの出勤を再開して以来、僕は毎日、そんな「指先のサバイバル」と対峙している。
僕は約1年前、いわゆる「頸髄損傷(けいそん)」を負った。
事故の直後は、脳からの命令が全身に一切届かなくなる「脊髄ショック」という状態になり、指先が1mmも動かせないときもあった。
そこからリハビリを重ね、幸いにも動く機能は少しずつ戻ってきたのだが、神経の「先端(末端)」には、今も強い麻痺が残っている。
例えるなら、「分厚いスキーグローブをはめたまま、すべての作業をさせられている」ような感覚だ。
歩く姿や、腕を大きく動かす様子だけを見れば、周囲からは「ずいぶん元気になったね」と言われる。
しかし、本当の闘いは、他人の目には決して映らない、日常のミリ単位の「ディテール」に潜んでいる。
コンビニランチという「見えない地雷原」
オフィスでの昼食時、その地雷は容赦なく牙を剥く。
お昼時を少しずらして、ビルの近くにあるコンビニへ向かうのだが、並んでいるお弁当やカップ麺は、今の僕には「難攻不落の要塞」だ。
まず、プラスチック容器を包む薄いビニールが開けられない。
というより、開封のための「切り口」をつまむだけの力が指先にないのだ。
おやつに買ったグミの袋ですら、時に歯を使って、切り口をなんとか破ることはできても、その後に現れる「ジッパー(再封チャック)」を指先で左右に引き剥がす力が出せず、挫折する。
結果として、僕のランチは「海苔が最初から巻かれているタイプのおにぎり」と、ボロボロとこぼれない「メロンパン」のような菓子パンに最適化された。
サンドイッチや焼きそばパンは、パッケージを掴んだ瞬間に中身を押し潰してしまうから不可。
一度だけ、その安全圏を破ったことがある。先日、同僚に付き添ってもらい、冷やし中華を買ってみたのだ。
食べ始めは良かった。
同僚が麺つゆの袋を開け、フタを外し、箸を袋から出してくれた。
おかげで、久しぶりに「ランチを選ぶ」という贅沢を味わえた。
問題は、食べ終わったあとに起きた。
同僚は先に席を立ち、僕は一人、残った麺つゆの処理を任された。
プラスチック容器の縁を両手で挟むように持ち、汁を捨てにいこうとした瞬間、指先に力を入れたつもりが、うまく容器を傾ける角度がコントロールできず、汁がそのまま自分の席にぶちまけられた。
とっさに容器を立て直そうとしたが、握力のない指では間に合わない。
結局、汁は机を伝って周囲の席まで飛び火し、隣にいた人にも被害が及んだ。僕には、頭を下げることしかできなかった。
「容器を斜めに傾けたまま一定の力で保持する」という、健常な指なら無意識にできる動作こそが、僕にとっては最も高い壁なのだ。

この一件以来、僕は汁物系のメニューには絶対に手を出さない。
冷やし中華の美味しさと引き換えに、僕は「安全な昼食」という代償を選び続けている。
もはや昼飯は、お腹を満たすためだけの事務的な作業だ。
飲み物にも罠がある。
ありがたいことに、以前知人に「ペットボトルオープナー」を紹介してもらい、鞄に常備している。キャップ自体はそれで回せる。
だが、違うのだ。最近の主流である「環境に優しい、極薄の軽量ペットボトル」。あれが、握力ゼロの僕にとってはただの「水爆弾」になる。
キャップを開けようとボトルを支える手に少しでも力が入ると、薄いプラスチックがペコッと凹み、中の水分が勢いよく噴き出してあたりがビチャビチャになるのだ。

奪われて知った「まさぐる」という奇跡
日常生活のすべてが、目で見た情報だけで綱渡りをするような感覚だ。
人間は本来、手元の感覚だけで多くの仕事をこなしている。例えば、鞄の中に手を突っ込んで、指先の感触だけで「あ、これがSuica(定期入れ)のプラスチックだな」と判別する行為。
専門的には『能動触(Active Touch)』と呼ぶらしいが、指先を動かして「まさぐる」ことで、私たちは物の形や材質を認識している。
いまの僕には、あの「まさぐる」という芸当ができない。
指先が触覚を失っているため、触ってもそれが鍵なのか、カードなのか、小銭なのかが全く分からないのだ。
そしてこれは、物に対してだけの話ではない。ぶっちゃけて言えば、人肌の感覚も、僕にはよくわからない。
久しぶりに再会した人から握手を求められても、相手が感じている「僕の手のひら」と、僕自身が感じている「相手の手のひら」は、まったく別のものだと思う。
相手は温かい体温や柔らかさを感じてくれているのだろうが、僕の側に返ってくるのは、輪郭の曖昧な、ただの「圧力」のようなものでしかない。
誰かの手を握るという、本来もっとも人間的であるはずの接触が、僕にとってはどこか一方通行な行為になっている。

結果として、電車の改札前で行き詰まり、鞄を大きく開けて目で必死にSuicaを「捜索」する羽目になる。
シャツのボタンをかけるのもそうだ。入院中のリハビリで、それこそ何時間もかけて練習した。
けれど、今でもできない。
特に上の二つのボタンは、鏡を見ないと位置が確認できないし、何より「ボタンを穴に通したあと、反対側から指先で持ち替えて引っ張り出す」という繊細な指の連携がどうしても破綻する。
だからこの夏は、ポロシャツの上のボタンをあらかじめ留めた状態で、Tシャツのように頭から被るという「技」で乗り切っている。
爪切りだって一苦労だ。
手も足も、道具を使って自分で切ることができるようにはなった。
だが、硬くなった足の爪を切るにはそれなりのパワーがいる。
指先に無理に力を込めた結果、感覚の鈍い足の身を巻き込んで、これまでに二回ほど生身を切ってしまった。
じわりと広がる血を見て初めて、痛みに気づく。
さらに追い打ちをかけるように、学生時代に痛めていた手の小指は、今回の怪我影響か、「スワンネック変形」という状態になっていて、うまく曲がらない。
僕の手は、物理的にも、神経的にも、本当に不格好なままだ。
画面の向こうの「6割の光」
そんな、おにぎりの海苔を剥がすのにも苦労するような障壁だらけの日常の中で、ふと会社のデスクで自分の手元を見る。
キーボードの前に、僕の両手がある。
入院時、脊髄ショックの暗闇の中にいた頃は、PCやスマホのキーボードに触れることすら叶わなかった。
それが今はどうだろう。
キーを叩くときの、指先にかかる「接触刺激」。
僕の脳がその微かな衝撃を新しい感覚として「再教育」し、学習し直しているのだろうか。
僕の身体が少しずつ、少しずつキーボードに馴染んできているのを感じる。
さすがに昔のようなブラインドタッチはできないし、手元を見ながらのタイピングだ。
けれど感覚としては、「以前の6割くらいのスピード」で文字を入力できるようになっている気がする。

指先という身体の「末端」には、確かに消えない麻痺が残っている。
グミのチャックには今日も敗北するし、環境に優しいはずの軽量ボトルに水を吹かれる。
それでも完璧な先端を持たないまま、僕は今日も自分の指でキーボードを叩き、海苔巻きおにぎりとメロンパンを貪り、6割の速度で仕事に向き合っている。
まさぐることも、握手の温度を感じることも、まだうまくできない。
だが、地雷だらけの日常を、今日もまた一つ、踏み抜かずに歩き切った。それだけで、僕にとっては十分すぎる勝利だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
人それぞれ感じ方は違うと言いますが、私と同じような気持ちを抱えている方々にとって、この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。
よろしければ、コメント、フォロー、いいね!ボタンをクリックしてください。
◆自己紹介↓
◆運営マガジンについて
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます! 