杖をついて、体育館に戻った日。――頸損の僕が「社会復帰」の予行演習をした話。
はじめに:体育館の扉を押した瞬間
葛飾の体育館の重い扉を押し開けると、そこには僕の人生の一部だった「日常」が、変わらずに渦巻いていました。
バッシュが床をこする高い音。
茶色のボールが弾む重低音。
子供たちの歓声。
けれど、やっとの思いでバッシュに履き替えて、コートの端に立つ僕の右手には、一本の杖が握られています。
一歩踏み出すたびに、右手に力を込め、身体のバランスを確かめるように歩く。
かつて、このコートを縦横無尽に駆け回っていた僕の面影は、そこにはありません。
職場復帰の日が近づいていた。その前に、もう一度「人の中に戻る」という感覚を取り戻したかった。
だから今回の再会は、僕にとって単なる練習への復帰ではなく、社会という大きな海へ戻るための、最も生々しい「予行演習」となりました。
第1章:戦友たちの「いつも通り」が、一番の薬だった
最初に僕を迎えてくれたのは、監督やコーチ陣でした。
「いよいよ、戻ってきたね」
「待ってましたよ」
短い、けれど温かい言葉。
そして「どもども」という、いつも通りの軽い挨拶。
これまで数年間にわたり、一緒にチームの運営を担ってきた仲間たち。
彼らは僕の杖を見て、特別な顔をしませんでした。
驚きも、哀れみも、過剰な心配もない。ただ「また一緒にやろう」という空気だけがありました。
これが、どれほど救われることか。
おそらく職場復帰の初日も、こういう「いつも通り」を演じてくれる同僚がいるはずです。
その人たちの存在が、きっと僕を支えてくれる。体育館でそれを確信しました。
第2章:大人の「優しさ」という名の重さ
一方で、保護者の方々の反応は、僕に「今の自分の姿」を突きつける鏡のようでした。
僕の杖をついた姿を見て、多くの方が目を丸くし、言葉を失っていました。
「コーチ……もう、大丈夫なんですか?」
「無理はしないでくださいね。座っていてください」
「何かあったら言ってください」
向けられる言葉の一つひとつは、間違いなく善意です。
でも、その声の奥に「哀れみ」に近いニュアンスが混じっているのを、僕は敏感に感じ取っていました。
かつては共に子供たちの成長を熱く語り合っていた関係が、一瞬にして「支える側」と「支えられる側」に切り替わってしまったような寂しさ。
この感覚は、職場でも必ず来ます。
「体、大丈夫?」「無理しないで」「座っていていいよ」。
善意の言葉が積み重なるたびに、自分が「配慮が必要な人」として定義されていく感覚。
それを受け入れながら、でも「中身は変わっていない」と示し続けなければならない。そのしんどさを、体育館で予習することができました。
さらに、その日の体験入部に来ていた親御さんたちの反応は、より直接的でした。
僕が何者かも知らない彼らは、杖を突き、時折苦しそうに深い呼吸を繰り返す僕を見て、あからさまに「何事か」という表情を浮かべていました。
「この人が指導者なのか?」という無言の疑念。
それは、僕という人間の価値が、身体の不自由さというフィルターを通した瞬間に、全く別のものとして評価されてしまう「社会のリアル」そのものでした。
職場の新入職の初対面の人たちも、最初はきっとそういう目で見る。
それが人間というものだ。
でも、時間をかけて「中身」を見せていくしかない。
体育館が、そのことを静かに教えてくれました。
第3章:子供たちの「踏み込み」が、僕を救った
「あ、コーチ……お久しぶりです」
新6年生のキャプテンが駆け寄ってこようとして、僕の杖を見て一瞬、足が止まりました。
「ああ、久しぶり。……ふぅーっ」
挨拶を返そうとして、僕は思わず深く息を吸い込みました。
頸髄を損傷した今の僕にとって、ときに深く空気を吸うという行為は、どうしても大きな「ため息」のような音になってしまいます。
「……何か、怒ってますか?」
不安そうに顔を覗き込むキャプテン。僕は慌てて首を振りました。
「違うんだ。これはね、今、精一杯空気を吸っている音なんだよ。怒ってるわけじゃないから、大丈夫だ」
「そうなんですか……。じゃあ、コーチが怒ってる時はどんな感じになるんですか?」
「それはまた別の顔になるから、分かるよ。覚えておいてくれ」
キャプテンはそれを聞いて、少し安心したように笑いました。
この会話、職場でも絶対に必要になります。「これは不機嫌じゃなくて、呼吸の音です」という説明を、自然にできるかどうか。
体育館で一度やっておいて、良かった。
そんな僕たちの間の空気を切り裂いたのは、4年生たちでした。
「うわ! コーチ、何その杖! かっこいいじゃん!」
「どこ怪我してんの? 触っていい?」
「なんで杖ついてるの? 足、折れたの?」
彼らは、僕が「かわいそうな病人」であることを許してくれません。
杖を装備品として面白がり、僕の不自由さをそのままエンターテインメントにしてしまう。
「コーチ、手がプルプルしてる。ゲームのやりすぎ?」
「ちょっと待って、それ動画撮っていい?」
「コーチって、今何レベル?」
「そうかもな。ちょっと難しいステージに挑戦中なんだよ」
思わず笑いが漏れました。
「じゃあレベルいくつになったら、また一緒に走れる?」
「……それはまだ分からないけど、今のレベルでもコーチはできるから、安心しろ」
大人たちが気を遣って言葉を飲み込む中で、彼らの無邪気な「踏み込み」は、僕を沈黙という孤独な殻から引きずり出してくれました。
彼らにとって、僕は「怪我をした可哀想な人」ではなく、あくまで「ちょっと仕様が変わったコーチ」のままだったのです。
大人の社会では、こういう踏み込みをしてくれる人はほとんどいません。みんな気を遣って、表面をなぞるだけの言葉を選ぶ。
子供たちの無邪気な直球が、どれほど救いになるか。改めて思い知りました。
第4章:座っているからこそ、見えるものがあった
練習が始まると、僕はベンチに座り、子供たちの動きをじっと見つめました。
かつてのように自ら見本を見せて、激しいステップを踏むことはできません。コートを走り回りながら大声で指示を出すこともできない。
でも、座っているからこそ見えるものがありました。
一人ひとりの表情。パスを出した後の足の位置。ディフェンスの視線の向き。立って動き回っていた頃には、流れの中で見落としていた細かなディテールが、ベンチからは鮮明に見えます。
「……いまの、ナイスパス」
短い言葉を、一音ずつ、大切に置くように伝えました。
「コーチ、声が出にくいなら、僕たちが近くに行くね」
そう言って、話を聞くときに以前よりも一歩、僕との距離を詰めてくれる子供たち。
「ねえコーチ、さっきの2番の動き、どう思った?」
「コーチ、あの時のパス、もっと早い方が良かった?」
矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
僕は一つひとつに、ゆっくりと答えます。
言葉が追いつかない時は、少し待ってもらう。
それでも、子供たちは待ってくれました。
職場でも、こういう場面が来ます。
会議で発言しようとして、言葉が出てこない瞬間。
議論のスピードに追いつけない瞬間。
体育館で「待ってもらう」練習ができた気がしました。
不自由さを隠すのではなく、曝け出すこと。
「今の僕は、これが精一杯なんだ」と笑って見せること。
それは、かつての「完璧なコーチ」だった頃には、決して教えることができなかった「強さ」の形なのかもしれません。
エピローグ:不完全なままで、再起動する
練習が終わり、子供たちが帰り始める時間。
「コーチ、また来週も来る?」
「次の試合、見に来てくれる?」
「コーチがいると、なんか安心する」
その言葉を聞いた時、胸の奥で何かがほぐれていきました。
職場復帰の日が、確実に近づいています。
電車に乗るのも、人前で言葉を詰まらせるのも、やっぱり怖い。
「配慮が必要な弱者」としてしか扱われないのではないかという不安は、今も消えません。
でも、体育館という社会の縮図で、戦友たちは僕を待ち、子供たちは今の僕を受け入れてくれました。
大人は気を遣い、子供は踏み込んでくる。
どちらも、それぞれの形の「受け入れ」です。
不完全なインターフェースのままでも、中身さえしっかりしていれば、また誰かと繋がれる。
杖を突く音と、大きな呼吸の音。
その「今の僕の音」を刻みながら、一歩ずつ、また世界の中へ戻っていこうと思っています。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
人それぞれとは言いますが、自分と同じ感覚を持った方の少しでもお役に立てれば幸いです。
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