人間と怪物の境界は、舞台の外にもあった ―『劇団四季 ノートルダムの鐘』を観て
劇団四季「ノートルダムの鐘」を観劇しました。
去年初めて劇団四季を観てえらい感動したのですが
今年なんと大阪で、大好きな物語である
「ノートルダムの鐘」が上演されると言うことで
早速チケットを取って行ってきました。

ディズニー版の、特に楽曲が大好きだったので
それを楽しみに軽い気持ちで観に行ったんですが
「舞台じゃないとできない演出」によって
何度も気持ちを刺され、疲れ果てて帰ることになったので
それについての感想を残せたらと思います。
※本記事は劇団四季『ノートルダムの鐘』の
結末を含むネタバレがあります。
人間と怪物の違いとは
「ノートルダムの鐘」という物語の大きなテーマです。
物語の感想は語り尽くされているので
あらすじはここではサクッと紹介します。
『ノートルダムの鐘』は、容姿の違いから「怪物」として鐘楼に閉じ込められて育った青年・カジモドと、彼を育てた司祭フロロー、そして自由を愛するジプシーの女性エスメラルダを中心に描かれ、人間の善悪や差別、愛、信仰を通して「人間と怪物の違いとは何なのか」を問う作品です。
このあらすじにある「人間と怪物」の描き方が
劇団四季版はかなり特徴的だったので
それについてお話していきます。
「あなたの心に何かが響いていますように」
この舞台は、フィナーレの最後の歌詞で、
こちらに問いかけてきました。
そして、カジモド役の役者が
カジモドの特徴的な背中のコブを“舞台上で“脱ぎ
いわゆる「人間」の姿になる過程を
隠すことなく見せていました。
衣装の着脱をそのまま見せるのは、
人間と怪物の境界を曖昧にしているようにも見え
さらにはこちらに問いかける歌詞のおかげで
第4の壁の境界をも曖昧にする、
という作りになっています。
物語のメッセージをより深く受け取れる仕掛けで
私は本当にここで鳥肌が立ちました。
ちなみにこの時まで気に留めていなかったのですが
オープニングでもカジモドが背中のコブを
つけるところから始まっていて
フィナーレで逆の構造になるという仕組みです。
ただ、ここで私は
「人間と怪物に違いなんてないんだ」
くらいの感想では終われませんでした。
怪物を作るのは誰か
物語を象徴する今のシーンですが
役者が衣装を脱ぐと言うのは、
カジモドが人間になるという見せ方に加えて
役自体を脱いでいるとも捉えられます。
そのとき
「あ、私と同じだ」
と感じました。
そして気づきました。
「コブがあるから怪物なんだ」
「コブを外して人間になったな」
と、自分自身が無意識に線引きをしながら
この物語を見ていることに。
物語の作りがそうなっているとはいえ
人間と怪物の線引きは
「私が」作っていたものでもあると思ったのです。
怖かった。いつでも私が怪物を作れることが。
そしてまた、その積み重ねで
自分自身も怪物になれてしまうことが。
消えない境界
あと、物語の中で気になったことといえば
カジモドのことを「醜い」「気持ち悪い」という
差別的な目線で描くことに躊躇いがなかった点が
とても印象に残っています。
もちろん時代設定的なものもあるんですが
そういう話だから「ああ、醜いのか」と
受け入れられていたことも今思えば怖かったです。
正直街中とかで、容姿に特徴のある人を見かけたら
びっくりしてしまうことだってある。
ダメなことなのかも、と思いながら
でもある程度「そう言うものだから」と
受け入れている自分もいる。
そうやって「自分と違う人」に対して
たくさんの境界を作り、自分を人間であらせようとする
フロローのような気持ちと向き合うことになるのです。
カーテンコール
ここまでで刺され、苦しくなり
フィナーレ後ずっと涙が止まらなかったのですが
恒例のカーテンコール、
多分なんですけど、前回見た時の倍くらい出て来てくれました笑
ありがとう、救いのない話だったけど
和ませようとしてくれているんだな…
と思いながら舞台を見てると
誰よりも元気に手を振るフロローの姿が。
よかった、あなたもまたしっかり人間だったんだ。

