本を読めないという流行(病)
本を読めない、という2冊の本
『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』(かまど・みくのしん、大和書房)という本(以下、『はじ読』)と、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社)という本(以下、『なぜ働』)が、共に2024年に出版された。
この2冊は毛色は違うものの「本が読めない」という点で共通しており、共にジャンルが異なる中で広い読者を獲得している。たとえば『はじ読』は、発売3日で5万部の重版が決まり、累計8万部となったことを、版元である大和書房がプレスリリースを出した。その後、TBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』にみくのしんがゲスト出演したり、NHKラジオ第1『高橋源一郎の飛ぶ教室』で作家・高橋源一郎に取り上げられたりしている。もちろん、映像化・漫画化されているオモコロ記事『変な家』の作者である雨穴の新作短編が掲載されていることや、ダ・ヴィンチ・恐山という名でも活動する作家・品田遊と雨穴による帯文の効果、当初のオモコロ記事自体が100万PV以上を獲得していることにも起因するが、紙の本として重版されたり、ラジオの聴者という、Webメディアとは異なる層に広がっていることは想像に難くない。『なぜ働』も同様に様々なメディアで紹介され、発売から半年経った10月には、丸善ジュンク堂書店、紀伊國屋書店他全国の書店スタッフの投票による「書店員が選ぶ ノンフィクション大賞 2024」の大賞にも選ばれた。ちなみに、双方とも日本経済新聞上で連載されている「ベストセラーの裏側」というコーナーでも取り扱われている。
では、それぞれの本についてどういうものか振り返り、我々にとっての読書について考えてみる。
※以後、それぞれについてネタバレがあります……というわけではないですが(小説ではないし)、予めそれぞれを読むことをおすすめします。
『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』における本と読書
『はじ読』は㈱バーグハンバーグバーグが運営するWEBメディア『オモコロ』(厳密には姉妹メディアである『ブロス』)上で掲載され、Twitter(現X)上でも話題となった「本を読んだことがない32歳が初めて『走れメロス』を読む」をはじめとする、WEBライター・みくのしんが短編小説を一字一句読み、独自の感性と方法で物語を解釈していく姿を同じくライターのかまどが記事の体裁にした(書籍化の折には改めて本という媒体に合わせてリライトした)もの。
『はじ読』において「本」と呼ばれているものは、小説であり、単位は一冊でなく一篇の物語である。みくのしん自身は新聞を読むことも不得手としており、そういった記事もあるが、一方で漫画については特筆するような苦手意識はなく読んでいるようである。改めて、みくのしんが本を読めない理由を記事より次のとおり引用する。
▼シーンやキャラクターの顔や声色など、書いてあることを自分なりに飲み込んで、脳内で想像しないといけない。それを文字を読みながら行うという処理が出来ない。
▼内容が頭で構築できないので、文字をいくら読んでもすり抜けていく。
▼気付かずに同じ行を往復して読んだりしちゃう自分がハラタツ。エクセルみたいに目に良い2色にしてほしい。
▼集中力が持たないので、すぐ飽きてしまう。
▼長過ぎる。伝説のボリューム。
たしかに漫画は構図やコマ割り、書き込みで空間的にも時間的にも、想像の補助線を与えてくれ、行ズレなども起こりにくいメディアだろう。こと集中力という点においても、連載作品であれば1話あたり10~20ページという区切りで物語が展開することが多い。全体のボリュームが多いとしても、個別に一話一話進められる点で、物語を読み進めることができるのだろう。みくのしんが苦手とする本は『はじ読』においては短編小説ではあるが、エッセイや詩といったものについても親しんではいない。研究書(人文書)についても同様である。ただ、みくのしん自身は文字列を読むことが不得手なだけで、物語や他人の話に興味がなかったり、理解する気がないということではない。このことについて、ライターの詩舞澤沙衣は自身のnoteにて、彼の思考の多動性を踏まえて、読書への補助(道具や辞書、図書館等の補助サービス)への認知や利用の拡大の必要性について言及している。
『はじ読』では読書への補助として機能しているのが、共著者(案内人)であるかまどである。本書は単にかまど・みくのしんが、独自の面白さのある「全く新しい本の読み方(帯文より)」をしている、というだけでない。詩舞澤の指摘を踏まえれば、リーディングルーラーや辞書、図書館における補助サービスが、我々にとっての案内人(=かまど)となり、身体的なつらさというハードルを下げてくれる、と言い換えることもできる。『はじ読』はゲームの実況プレイ動画のような、人の面白がりに相乗りするエンターテインメントであると同時に、身体的な(あるいは、個人ごととしての)読書のしやすさについて考える契機のひとつになっている。
『なぜ働いていると本が読めないのか』における本と読書
『なぜ働』は『女の子の謎を解く』(笠間書院、2021)や『娘が母を殺すには?』(PLANETS、2024)などの著者である三宅が、映画『花束みたいな恋をした』(脚本:坂元裕二,2021)で「息抜きにならないんだよ。頭入らないんだよ。パズドラしかやる気しないの」と、菅田将暉演じる麦が好きだったはずのゲームやマンガにのめり込む余裕がないことを吐露するシーンを軸として、何故我々は好きだったはずの読書が(趣味が)働いていると十全にできなくなってしまうのか、を労働史と出版文化・読書文化のつながりかたを紐解いていく、というもの。
『なぜ働』における「本」はジャンルは問わず、趣味的に余暇で読んでいた一冊単位の本である。前述の通り『花束みたいな恋をした』で大作ゲームでなくパズドラしかできない主人公の悩みと同様に、これまで(就職する以前)はコンスタントに読めていた小説等が読めなくなってしまったのは何故か、というものを起点としている。
労働史と読書史の過程があるからこそ結論が月並みなものではなくなるため、是非『なぜ働』を読んでほしい。と、前置きした上で、本書の結論は次の通りである。
働きながら本を読める社会をつくるために。
半身で働こう。それが可能な社会にしよう。
本書の結論は、ここにある。
今の社会は全身全霊で働ける人が「普通の人」とされているが、事実老若男女様々な人のうち、「普通」なのは一握りである。ゆえに全身全霊でなく、半身…余力が残る程度で人々が労働しても回る社会や経済を目指す。多くの人が労働力以外の役割の時間を過ごせることが重要なのだ。繰り返すが、三宅がこの結論に至るまでには、いくつものトピックを経由しているため、結論だけを見ず、『なぜ働』を読んでほしい。読書のし辛さという問題は、個人の問題なだけでなく社会の問題であり、社会側の解決なしには成立しないという射程の広げ方は、2024年の映画『ラストマイル』(脚本:野木亜紀子)とも共通する。
「本」と「読めない理由」と
『はじ読』『なぜ働』における「本」は前述の通り必ずしも同じものを指していない。必ずしも読め、というものでもなければ、他のメディアに対して優位なもの、というものでもない。紙の書籍はプラットフォームに囚われずにモノとして保存でき、入手後に内容に変化は起こらないし、ページ数や行数なども固定されている。それらの点で保存性や引用のしやすさは優位な点とはいえるものの、動画や音声、別のメディアが劣っているわけではない。物理的な重さがないことや、両手を使わずとも内容を把握できること、文字や図だけでなく動きを含めて把握できることなど、それぞれメディアごとに特徴がある。良し悪しも好き嫌いもあるかもしれないが、単純に優劣になるわけではない。そのうえで、本の特異性をひとつ挙げるとすれば、文字列をある1つの体裁にまとめたものとして長い期間通用している点だろう。これは本や小説の起源が何で、いつをもって最初の本と定義するかということではない。極論500年前にタイムスリップしても、既に本を知っている立場の人であれば、現代の本を読めるかどうかはともかく、モノとしての「本」と認識できる。だからこそ、読書をめぐる言説は世代を超えて共有されやすい。
電子書籍の登場で紙の本がなくなると言われたり、書店の閉店が相次いでいたりすることや、TikTokやYouTubeショートといったインスタントな刺激を得る方法の増加で、余暇を楽しむ方法が本を読むことだけでなくなっているのは事実だろう。出版文化や書籍流通は、現在のかたちのままではいられない。実は2024年は、出版や書籍の販売側でも風向きが変わった年である。経済産業省は3月5日に大臣直轄「文化創造基盤としての書店の振興プロジェクトチーム」を設置すると発表した。そして大臣と書店経営者が直接意見交換する「車座ヒアリング」などを踏まえ、10月4日に「関係者から指摘された書店活性化のための課題(案)」が公表された。国もまた、書店の減少や出版不況は、経済の問題や文化の問題と捉えて始めている。販売方法や販路、地域における書店の役割、読書習慣の再定着など様々な課題がある。補助金で本屋という業態を延命できるかもしれないし、出版支援により書籍金額の高騰に足止めをかけられるかもしれない。しかし、その時に読者がいなければ、どんなに書店の数が減らなくても、出版点数が維持できても、業界は先細りするだけである。
読者(となりうる人々)が本を様々な理由で読めないことについて、個人的な苦手意識や思考の癖から語られているのが『はじ読』であり、社会的・環境的な一因として労働という側面から整理したのが『なぜ働』である。習慣的に読書をする人は、前者における読めないという悩みはもしかすると努力不足や興味のなさとして処理してしまうかもしれない。逆に、読書を特殊なものと捉えている人は、後者における読めないという悩みは、その必要性自体がわからないと捉えるかもしれない。「本を読まない/読めない」と一口で述べられるとしても、そこには様々な理由が隠れている。
人々が本を読めないと悩むとき、『はじ読』が示唆するように個人の生来的な癖や経験的な苦手意識によって阻害されているのかもしれないし、『なぜ働』が述べるように社会の構造や思想の潮流によってリソースを割きにくい環境になっているのかもしれない。同時に、必要以上に本を読まねばならないと市場に脅されていないか、本当は仕事や生活の上で読書の優先度が下がっているのではないか、等を疑ってみるべきでもあるだろう。読書それ自体が仕事や生活に組み込まれている場合は別として、読みたいという気持ちが必要以上に加熱されていたり、空回りしていないことを確認する必要性はあるだろう。
おわりに
自分もまた、生活や仕事の状況によって全く本を読まない日々が増えている。同時に半ば義務的な読書を行っていたことにも気づいた。ジャンルのランキングに先回りしないと。好きな作家が新刊を出した。再読より、新しい物語を。いろいろな習慣や欲望に責め立てられていた。もちろん、話題作や個人的に興味がある事柄について、物語か評論か関係なく、読みたいという気持ちがある。でも、その中にある「今すぐ」という枕言葉を疑っているのが、今の自分である。
本は、もちろん出版のシステム上、絶版となったり、回収となったり、入手が困難になること、読めなくなる可能性は多々ある。一方で、ショート動画やテレビ放送、Web記事などに比べれば、長く存在してくれるメディアである。本というメディアのもつ、時間的な懐の深さに我々は甘えてよい。この懐の深さを維持するために必要なことは、出版業界や書店、読書文化を守ることだけではない。
『はじ読』のように、みくのしんのように自分の尺度でゆっくりじっくりと、かまどのようなサポートをしてくれるツールやサービスを活用して読み進めてよいという安心を確保すること。『なぜ働』の三宅の主張のように、全身全霊で働いて何かを生産し続けることに体力や時間を捧げなくてもよい、ほどほどに働いて本を読めるような日々を社会で目指すこと。何かに追われながら読むのではなく、自分の時間で本が読めるようになること。きれいごとだが、今のところの目標であり、「本を読めない」という流行病への対処法なのだ。
10/28所感追記
・本文中に「みくのしんの読めなさは、三宅の言う通り半身で働くことで解決するというものではない。」と入れるか迷っていたが、みくのしん自身がマジョリティの読み方をできるようになりたいとか、半身で働いて時間を作りたい、といったことを主張していないため、不採用とした。
・『はじ読』における読めなさの問題(身体的・個人的なもの)『なぜ働』における読めなさの問題(社会的・環境的なもの)に加えて、「時間的なもの」に囚われないことの肯定を差し込みたく、最後に自分語りの形で提示した。
・ジャンル年度ごとに更新されるランキングの細分化や、単作完結でなくシリーズ化した作品が重なることによって「急いで追いつかなきゃ」と市場側に急き立てられたり、初版で購入しなきゃ続刊がないかも、と出版側の業界事情の内面化を読者がしてしまうのは危険だな、とも思っている。
・『ラストマイル』を名前だけ出すような形にしているが、三宅が新自由主義やグローバル市場主義批判をして、半身で働けるように社会を変えたいというのは、『ラストマイル』で示される労働構造の歪みへの対処(ストライキからの交渉)に近いものではある。但し、前述の通り出版業界も商売のため、同様に購買欲の刺激や過熱を欲望していることを踏まえる必要がある。
