「腐らない紙」の記録 『草とり草紙』
記録のまなざし
2025年3月15・16日に、仙台で開催する上映会「記録のまなざし」。ゲストとして映像作家の飯岡幸子さん、小森はるかさんをお招きし、「記録すること」自体を問い直すような時間を作りたいと思う。
上映するのは、自作に加え、過去の貴重なドキュメンタリー映画の傑作2本。そのうちの一本は、照明技師の渡辺生が、アルツハイマー症を患った妻を撮った素材を、『阿賀に生きる』の佐藤真が構成・編集した『おてんとうさまがほしい』。そしてもう一本が、福田克彦監督の『草とり草紙』だ。
『草とり草紙』について
『草とり草紙』は、三里塚で長年ドキュメンタリー映画を撮っていた小川紳介による「小川プロダクション」に参加していた福田克彦が、そこを離れ自身で監督した1985年の作品である。
千葉県にある三里塚では、1960年代後半から空港建設反対運動がはじまり、住民と支援者、警官隊とが激しい衝突を繰り返し、双方に死者までが出た。
反対運動が続くなかで、成田空港が開港されたのは1978年。1985年の作品『草とり草紙』は、いわゆる「闘争」の「その後」を描いている。
この作品は、小川紳介の撮った「三里塚」シリーズとはずいぶん趣が違う。映画の主人公は、戦後すぐに三里塚へ入植し、農家として暮らしてきた染谷カツ。明治32年生まれの彼女は、空港開港後も工事に反対を続け、土地に住みながら農業を続けている。
『草とり草紙』は、直接に「闘争」を撮った作品ではない。映画では、八十歳を超えたカツさんのこれまでの人生のあゆみが語られる。
十一人の子供を産んで六人に死なれたり、勝手に土地を売った息子への当てつけに自殺してやろうと思ったとか、夫に逃げられたりしたことの、波瀾万丈な苦労話が中心である。
映像に映し出されるのも、畑で草とりをしたり、種まきをしたりして暮らす、カツさんの日常の風景だ。「大執行についてもすごかったねと言うだけ」とナレーションがあるように、激しく警官隊とやり合う場面も、連行される住民たちの姿も、画面にはあらわれない。
しかし、8ミリフィルムで撮られたそのつつましい映像からは、当たり前に見える日常、それこそが彼女にとっての「闘争」であることが伝わってくる。
「行為」としての語り
『草とり草紙』は、19話からなる章立てになっている。映画は、時折挿入されるナレーション以外は、基本的にすべてカツさんの声によって進んでいく。
カツさん自身の姿も最初から映し出されるのだが、その音声はいわゆる「オフ」で使われており、彼女が話している映像はなかなか登場しない。
声と語りがシンクロするのは、映画がはじまってしばらく経った「第三話」あたりになってから。畑で語る彼女の姿を見た途端、わたしは「この人がカツさんだったのか」という、奇妙な驚きを感じた。
それまでバラバラだった声と身体が一致した瞬間、彼女の存在が画面に「現前」したような感覚だった。そこに映っていたのはたんなる「インタビュー」ではなくて、語りというひとつの「行為」だった。
終盤の章で、夫が亡くなったことをカツさんが知らされた時の話が三度繰り返される。それぞれに日付が挿入され、ナレーションでも「彼女はそのことを物語としてしか語りません」という説明がなされる。
ただ情報を伝えるだけなら「同じ話」を何度も入れる必要はない。しかし、あえていくつもの語りが残されているところに、やはりそれを「行為」としてとらえる、映画独自の視点が明確にあらわれている。
欠落した章
また別の場面では、カツさんが孫について語る章がある。しかしそのパートは、タイトルが出たあとは黒画面のみなのだ。
ナレーションによると、編集中の映画を見たお孫さんから「自分の出てくるところで嫌な感じがした」と言われて話し合った結果、その部分は公開しないことにして「わたしと彼との記録になった」ということらしい。
あるいは編集で章ごとカットして、最初からなかったかのようにしてしまうことも可能だったはずだが、完成された作品にはあえて「欠落」が残されているのだ。
この黒画面は、なんでもを残せるわけではないこと、誰にでも語れるわけではないこと、映画がすべてではないということ、そういう本来は当たり前の事実をわたしたちに気づかせてくれる。章立てがあってこその重要な「欠落」である。
「腐らない紙」の記録
映画の終盤、野菜の出荷作業をするカツさんの姿に、自身の声がかぶせられるシーン。彼女は、自分たちが暮らし、これまで生きてきたことについて「腐らない紙に記録にしておいたほうがいいよ」と語る。
わたしは、カツさんがフィルムを「腐らない紙」と表現したこと、そして撮影される側の彼女が「記録」と口にしたことに、映画から視線を打ち返されたような衝撃を受けた。
『草とり草紙』においては、撮る側と撮られる側との関係は一方通行ではない。あるいは単純に対等であるとか、双方向だったりするだけでもない。もしくは「協働」といった言葉で説明することもできない。
ここでは、カメラと被写体、おたがいの関係性全部が、カツさん自身によって丸ごと包み込まれている。彼女は映画の被写体でありながら、映画全体よりももっと広く、大きな存在なのだ。
今こそ見直されるべき映画
『草とり草紙』は、映像の氾濫する現代にあってこそ見直されるべき作品だ。「嫌な感じがする」箇所が黒く空白であること、「腐らない紙に記録する」という言葉が被写体であるカツさんから語られることの重要さは、いくら強調してもし足りない。
この映画は、ドキュメンタリーの限界までの歩みであると同時に、踏み出された最初の一歩でもある。
