終わらなかった映画の時間『おてんとうさまがほしい』
唯一無二の記録映画
2025年3月15・16日に、仙台で「記録のまなざし」という上映会を開催する。ドキュメンタリー映画の上映と、映像作家の飯岡幸子さん、小森はるかさんを招いてのトークを通じて、「記録すること」自体を問い直すような機会にしたいと考えている。
作品選定のなかで真っ先にあがったのが『おてんとうさまがほしい』(1994)だった。これは本当にすごい映画だ。照明技師の渡辺生が、アルツハイマー症を患った妻を撮ったフィルムとビデオなどの素材を、『阿賀に生きる』の佐藤真が構成・編集した作品である。
『おてんとうさまがほしい』撮影の経緯や編集の意図などは、プロデューサーの貞末麻哉子さんが作った書籍『老いて生きる』に詳しい。唯一無二の美しい記録映画がなぜ生まれたのか、その経緯が真摯に書かれた、これ自体一個のすばらしい記録であり、映画を見た方にはぜひ読んでもらいたい本だ。
もちろん、以前にわたしも『老いて生きる』を読んでいる。しかしここではその内容には触れず、またあえて読み直さず、書いてあったことも一度忘れることにする。「佐藤真」という固有名詞も一旦知らなかったことにして、ただ映画の画面を見たその体験について、文章にしてみようと思う。
はなればなれのふたり
映画は、山道を走るバスを映した映像からはじまる。そのあとに病院の外観があらわれる。どうやらこの場所が映画の舞台であり、そこに誰かがやってきたらしい。
突然、映像はフィルムからビデオに切り替わる。家の中。おばあさんが朗々とした声で民謡を歌っている。節回しに合わせ、両手が小刻みに震える。まるでテルミンの演奏をしているかのようだ。
画面に『おてんとうさまがほしい』のタイトル。そのあとの最初のカットは、反射してガラスに映るカメラを持った男性と、向こう側の廊下にいる女性の姿だ。場所はさきほど出てきた病院だろう。パジャマ姿の老婆が、誰かに呼ばれて振り返る。望遠でかなりの距離がある。
カメラを持った男性は、照明技師の渡辺生。女性はその妻・トミ子である。映画は全編にわたって渡辺生自身の声で、自分がなぜ病んだ妻を撮るのか、どれほど施設の人に感謝しているか、夫婦とは何か、といったことが語られていく。
映画の「語り手」は渡辺生であり、彼がカメラを構えている姿と被写体であるトミ子がガラス越しに二重写しのように重なるこのカットは、その冒頭としてあまりにもふさわしい。
しかし同時に、間接的に同じフレームにおさまっているとはいえ、ふたりはガラス戸に隔てられており、一緒の空間にいるわけではない。夫婦は別々に、離れている。映画はそこからはじまる。
渡辺生の声が語る。「こんなの撮って悪いなあ」「でも、下手ながらにやってみる」。老いて病を患った妻を映し、それを人に見せることの戸惑いを吐露する声を、わたしたち観客はまずはじめに聞く。
場面はまた自宅に戻って、古い写真からふたりの馴れ初めが語られる。そのうちに、スーパーで同じものを何度も買ってくるとか、ウィンカーを出しっぱなしで運転するとか、色々な兆候があり、ついにトミ子はアルツハイマーと診断され、施設に入ることになる。
わたしは何を見ているのか?
渡辺生は照明技師としてはプロだけれど、カメラマンとしてはそうではない。画面に映る映像は、断片的だったりブレたりガタガタしたりしていて、必ずしも明瞭なものではない。
映す対象も、直接に施設やトミ子を映したものはもちろんあるけれど、なぜそれを撮ったのか、よくはわからないものが多い。花や蝶、どの場所なのか判然としない路地、空地などの風景が、半分くらいはピンボケで挿入される。
それらは音声や音楽によってつながれおり、最初からとくに違和感があるわけではない。しかし「イメージショット」と呼ぶにはあまりにも異様な距離と頻度であらわれるそれらの映像が積み重なるにつれ、これが只事ではないということがだんだんに理解されてくる。
また、撮影時にフィルムが終わったときの、徐々に白飛びして何も映らなくなるような映像も多用される。なぜ、通常であればカットされるこの部分が使われているのだろうか。感光したフィルムに対象は映らない。それが指し示すのは撮影(そして編集)という「行為」自体だ。
「これはフィルムである」という自己言及が、その真白の画面にはある。その意味を考えるとき、『おてんとうさまがほしい』は必ずしも「映っているものの映画」ではないのではないか、ということに思い当たる。
そんな映像のなかでも最も異様なのは、施設の外観を俯瞰で撮った長回しのショットだろう。カメラはしっかりと三脚に据えられ、それ自体動くはずのない建物が延々と映しだされたとき、自分は一体何を見ているのかと、唖然としてしまう。
不動の建物を映し続けたカットには、何かしらの意図がある。撮影時に長く撮った映像でも、編集すれば短くできる。つまり、あえて切らずに残された施設の外観がそこに残されている。とくに何かが説明されるわけでもないまま、流れる時間のなかでわたしは思う。『おてんとうさまがほしい』は、本当に「病気の妻を夫が撮った」映画なのだろうか?
地球が回っているのと一緒
「撮影をいつ終わらせるのか」という問題がドキュメンタリーにはある。とくに家族にカメラを向けたものである場合、やろうとすればいつまででも撮ることができる。それで結局、相手が亡くなったときに終わらざるを得ずに終わる、という場合が、そのような映画にはよくある。
不謹慎ながら『おてんとうさまがほしい』もまたそうやって終わるのではないかと思って見ていた。トミ子の病が徐々に進行し、行き着く先はそれ以外に想像ができなかったのだ。
しかし、映画はそのように終わらなかった。というよりも「映画自体が終わらなかった」と言った方がいいかもしれない。物語的にも映像的にも、『おてんとうさまがほしい』の時間は、病の進行をなぞるようにしてはじまりながらどこかで(おそらくはあの建物の不動の外観を延々と映したときから)、直線に進むのをやめて巡り、回り、繰り返しをするようになったように感じられた。
「病気には終わりがない。地球が回っているのと一緒」と渡辺生は語る。映画の序盤と、ラストカットの手前には昇ってくる太陽(おてんとうさま)が置かれている。それは繰り返され、循環する運動であり、時間である。
映画の最後は、病院の廊下にいるトミ子が名前を呼ばれて振り返る、ごく短いカットで終わる。
彼女を呼ぶ声は生のものではないけれど、カメラはそこにある。その近さによって、映像は、冒頭でははなればなれだったカメラと被写体が、やっと同じ空間に居合わせることができた瞬間のようにも見える。
堂々巡りの遠心力から放り出されるようにして、映画は冒頭に戻って繰り返し、しかし今度はガラス戸の隔たりを越え、ふたりは一緒にいる。
映画を見終わって思う。撮影者がプロではないから、ピンボケだから、映っているもの自体が問題ではないのだ、ということにはやはりならない。それでは、問いの立て方が違う。
撮ることによって離れ、編集でそれらはつながれる。断片は音で持続させられる。花や風景は、いつでもない、どこでもない場所として、ふたりのまわりを飛び交う。感光したフィルムにも、それを回した撮影の時間は映っている。不動の建物にもまた、あの映像の長さが必要だったのだ。
見かけの運動から離れ、流れる時間から映画を捉え直すとき、これはやはり「映っているものの映画」なのだと言える。
終わらなかった映画の時間
病によって、ふたりの時間は直線から円環に変わった。そこにわかりやすい起承転結はない。正確には「起承転」まではあるけれど「結」はない。だから「映画自体が終わらなかった」のだ。
もちろん映画は、実際には終わる。しかし「47分」という、ちょうど長編映画の半分程度である上映時間もまた、わたしたちを安易な結末へ導かないために必要な「短さ」だったのではないか。
流れ去る時間を、物語の結末へ消化させないこと。映らないものを指し示しつつ、映るもののうつろいに映画を託すこと。編集で作り出された終わりの回避が、この作品を「感動」の先へと押し進めている。
『おてんとうさまがほしい』は「病気の妻を夫が撮った」という事実を越え、かつて共に暮らしたふたりが何度でも出会い直す、反復の映画である。そこには「地球が回っているのと一緒」の、いつまでも繰り返される運動としての「時間」が映っている。
