【掌編小説】思いは届いていることに、気づくだけ - エピソード0
昨年12月に、RaMさんが私をイメージしたパン職人が登場する小説を書いてくださいました。
読ませていただいてるうちに、このストーリーをパン職人の目線で書いてみるとおもしろいんじゃないか?という思いが湧いてきて、RaMさんご承諾のもと、スピンアウト小説を書いてみることにしました。2ヶ月弱とまあ時間はかかりましたが、なんとか書き上げたので公開しますのでぜひ読んでみてください。
「今日のバゲットはこれまでにないいいできなんだよ。見てよこのクープの開き具合。」
いやあ、確かにすばらしいですね、と気持ちの乗っていない返答をするマスターにパンの入った袋を押し付けて、いつも通りカウンターの一番奥の席に腰を下ろす。
この一風変わったカフェにパンを納品するようになって何年になるだろう。マスターの人柄や、常連のお客さんたちが作りだす不思議な雰囲気に、いつの間にやら納品ついでに一杯いただいて帰ることも多くなった。
「いいんですか?また”あずき”さんに怒られますよ?」
「いい赤ワインが入ったって言ったのはマスターだよ?そこまで言われて、飲まずに帰れるものか」
娘と言ってもいいほどの歳の差がある”あずき”が私の小さなパン屋で働くようになってまだ2年。せっかくパンを納品に行ったのに飲んで帰ってきたら赤字じゃないですか!と、ずいぶん偉そうな物言いをするようになった。まるで母親か妻かのようなその口を封じるために、いつもこのカフェのおいしい前菜を少し分けてもらって持ち帰るようにしている。途端に機嫌が治るのがつねづね不思議だ。
並々と注がれた赤ワインの入ったワイングラス、というよりはブランデーをやる時のような大きなグラスをニヤニヤしながらマスターが持ってきたところで、店の扉がわずかに開いて入ってきたのは黒猫だった。
黒猫は、マスターの前まで来ると、にゃあとひと泣きして店の奥に消えてゆく。それを合図に、マスターはいつものように扉に向かうと、一人の若い男性を迎え入れた。
歳の頃なら20代後半か、ダークスーツに派手な色のネクタイ、結婚式場の名前の入った大きな紙袋を持っている。披露宴の帰りなんだろう。
初めてこのカフェを訪れる人はみんなだいたいそう。きょろきょろと店内を見まわしては、ひとしきりその不思議な雰囲気に気押されてから所在なさげに席に着く。
彼が座ったのは、3席しかないカウンター席の一番入り口に近い席。私の席との間に一席あるが、狭い店なのでほとんど隣に座っているようなものだ。
ほどなくして、水とおしぼりを持ったマスターが彼の元にやってきた。首尾よく本日の特別メニューのオーダーをもらったマスターが、厨房に戻る際に私に目配せをしていく。
やれやれ、私の出番か。
「君、この店は初めて??」
彼曰く、とても大事な親友の結婚式でヘマをしたようで、いたたまれなくなってひとり公園で落ち込んでいた時に、不思議な黒猫に誘われてこのカフェにたどり着いた、ということらしい。
こりゃしっかり話を聞いてあげないと、と気合いを入れなおしたところで、お盆を持ったマスターが彼の元にやってきた。手際よく前菜とクラフトビールを彼の目の前に置くと、そのまま彼と私の間にあった椅子を引き、どっかりとそこに座った。
「せっかくなので3人でゆっくりお話ししましょう。私は仕事中なので炭酸水で乾杯です。」
この時間になると新規のお客さんはほとんど来ないので、どこかの席に混じって話に興じるのがマスターのいつもの姿。それでも、営業時間内はけっしてお酒は飲まないという律儀な性格は、私がマスターの好きなところの一つだ。
珍しいクラフトビールと心づくしの前菜が心をほどいていっているのが、彼の表情の変化から手に取るようにわかる。あっ、バゲットを手に取った!そうそう、オリーブオイルにつけて食べると一段とおいしいんだぞ。うん、満足そうな表情をしている!よしよし!
ああ、いかん、パンのことになるとつい我を忘れて…
「そういえば、親友の結婚式で何があったのかまだ聞いてなかったね。よかったら話してみないか?」
つらい時期を過ごした小学生時代に、寄り添い励ましてくれた大親友。そんな大事な彼のために、これまでの感謝の気持ちをたっぷり詰め込んだスピーチをしようと何度も何度も練習して、ついに本番。ところが、彼の前に立った途端に頭の中は真っ白に。結局うまく話せたのかどうかさえもわからなくなり、そのことを引きずってしまったあげく、あまりのふがいなさに二次会にも行けずに飛び出してきた、そういうことのようだ。
黒猫に誘われてこのカフェの扉を開く若者は、だいたい心にちょっとした傷を負っている。
私にもそういう時期はあったはずだが、年齢とともにずいぶん図々しくなってしまった気がする。そんな彼に届けるべき言葉はこれしかない。
「なるほど、では、君の大親友は、今日の君の姿を見てどう思っているだろうね。」
ずいぶん長い間考えにふけっていた彼が目を開く。表情がみるみるゆるんでいく。大親友の立場になって自分を見ることで、彼なら自分のことをどう思ってくれているのかに気づき、それが彼の記憶を呼び覚ましていく。
「うん、きっと喜んでくれていますね。
おかしいな。失敗したと思ってたのに…」
つたない言葉でも、つっかえてしまったり言い間違えをしてしまったりしても、自分のためを思ってしてくれている行動、紡いでくれている言葉はしっかり心に響く。それが幼い頃からの大親友ならなおさらだ。
相手のことを考えているつもりでも、ひとりよがりな視点で物事をとらえてしまうことはよくあること。特に幼い頃につらい思いをしたものはそういう傾向が強くなる。
そんな時は、変なアドバイスや指摘をするのではなく、相手の立場になってみることをうながしてあげる、それだけでいい。
スピーチの間、大親友が自分のことをずっとにこやかに見ていてくれたこと、スピーチが終わった時は、満面の笑みで拍手を送ってくれたこと、ちゃんと自分の言葉で大親友の幸せを願い、新しい生活に向かう彼の背中を押してあげられたこと。
自分の知っている大親友はそういう性格。それに気づいたところで、ちゃんと思い出せたようだ。
「すばらしいですね!それに気づければもう大丈夫、ご親友の新しい門出のお話ではありましたが、あなたが一皮むけることのできた大事な一日ですよ!」
最後の最後で、マスターが口をはさむ。いつも大事なところだけ自分の手柄にする、私がマスターの嫌いなところの一つだ。
彼はもう大丈夫だろう。ここは気を取り直して、今日のバゲットがいかにうまく仕上がったか、私の話を聞いてもらうことにしよう。
「ずいぶん上機嫌ですねえ。小難しい話で大事な新しいお客様を逃さないようにしてくださいよ?」
私のパンへの情熱を冗談で切り返す、私がマスターの嫌いなところの二つ目だ。
ずいぶん長居したようなのでこのへんで引き上げるとしようかと腰を上げた時、マスターが最後の締めにと彼のところへ食後のコーヒーを持ってきた。
もう一つの皿には、バゲットと一緒に私が納品したシュトーレン。コースには含まれてないはずだが、彼が一皮むけたことへのお祝いということなんだろう。粋なことをする。
おいしそうに私のシュトーレンをほおばる彼の横顔を見ながら、私は席を立った。カフェの扉を開くと、厳しい寒さが身に沁みる冬の夜だ。
さて、店に戻ったらもうひとふんばり明日の仕込みをするとしよう。
