「母さんのサニーは18年だっけ」「いいえ27年くらい」という家族史
父は徒歩と自転車、そして電車でどこにでも行く人でした
年を取り自動改札が増えた頃
時代の変化についていけなくり移動の自由が減りました
私の手術した足は、足首を曲げられません
ですから大学時代に運転免許を取る時には
障害者手帳は持っておりませんけれど
警察で試験を受け許可を得て、免許を取得しました
1960年代の終わりのことです
当時は女性ドライバーが珍しくて
高速道路などで大型車から前後を遮られるなど
怖い思いもしました
また都内で運転するのは自信が無くてペーパードライバーでした
「もっと速く、停止線で止まれ、左右を見ろ」
トラガラは体が弱く39.5度くらいはすぐ出て
40度を越えて熱性けいれんを起こすこともあり
高熱で歯をくいしばってしまうと
吐瀉物で窒息しますから
スプーンにガーゼをまいて備えました
それが無い時は指で気道を確保しました
家庭用冷蔵庫では間に合わず
町の氷屋さんで氷を買って氷枕を作りました
だから運転が怖いと言っている場合ではありません
夫は父と似て歩くのが好きな人で
考え事をしながら駅まで歩くのが苦にならないものですから
運転免許は持っていませんでした
歩くのが速いので自転車もいらないタイプです
80年代の郊外のマンションの近くは
地域の人が自由に使える空き地がありました
学校一つくらいの敷地です
そこに中古車のシビックでよろよろたどり着き
教本を持って助手席に座る夫が助言する状態でした
たしか7日で3回くらいやりました
運転免許は無いけれど
大学で指導は仕事でしているので
私に教えるのは時間がかかると考えたのでしょう
夏休みに合宿免許で取得して来ました
私は時速10kmで「速い」と感じていましたから
やるときはやる
1980年代の初めは親族で女性ドライバーは
私だけでした
昭和の企業戦士は休めないので
お産のために送迎を親族から頼まれ
その頃は、少しは運転出来るようになっていましたし
他に頼める人もいないので必死でした
日産サニーの思い出
27年乗ったサニーを2016年に手放しました
(1989〜2016年)
廃車ではなく下取りが可能でした
良い状態を保てたのです
車検だけでなく
タイヤ交換、エンジンオイル交換など
マメに整備した車です
「長いこと無事故で働いてくれてありがとう」
車をなでて、そうお礼を伝えました
「俺はこれ運転できねえ」と言われる
地元でよくして下さる自動車整備会社に
サニーの整備で行った時に
他のお客様からこう声をかけられました
マニュアル車を当時60代の私が運転するのが
珍しかったのでしょう
車がお好きなのだと感じました
足が悪いからこそマニュアル車
フィルムカメラがお好きな方をご想像下さい
マニュアル車も自分で運転している手応えがあり
整備し慣れさえすれば
私の判断を遮るものが少ないのです
安全に運転したいので
自分に馴染むということはお金では買えないものでした
山育ちだから山が好きです
神奈川なら足を伸ばせば箱根があります
私の庭でした
長い長い坂をくだる時に
マニュアル車はエンジンブレーキを使いやすいので
極めて快適でした
生活の基盤と足
子どもの通学や通勤や塾の送迎
通院もあります
トラガラやヒカリが体調が悪く沈んでいる時に
バスやタクシーや電車と違い
車はプライベートな空間を保てるので
刺激に弱い状態でも
海や山や公園に行くことができました
図書館やブックオフも行きますし
体調によっては外食もできます
買い物もします
サニーが無ければ子育てできなかったでしょう
あれ以上、手に馴染み長く使った道具は無いです
別れ
2016年頃に注意力が落ちたと感じました
理由は、怖かった運転が怖く無くなったのです
無謀な運転はもちろんしませんが
ハンドルを握る際の怖さが弱まったことに
老いを感じ免許を返納しました
時が来たと思ったのです
60代の終わりですから
自分の体のために歩かないと
弱い足が衰えると考え
父のように徒歩と自転車の生活になりました
まとめ
文字通り「足」です
サニーがあれば足が悪くても健康な方と
同じように行動できます
夜間でも、知らない町でも
どこにでも行くことができます
ハンドルを握る責任の重さだけ
マニュアル車のサニーを覚える練習をした分だけ
車は私に自由を与えてくれました
日本が自動車社会に変わる時代を
偶然生きて走ることが出来ました
手放したサニーはメンテナンスすれば今も乗れる状態でしたから
知らない町で走っていてくれたらと思うのです
物ですが、頼りになる仲間なので
