水、薪、空と山――私から見た戦後女性史の一つ
椎名誠さんが1944年生まれの方だから、私より少しお兄さん世代です
簡単に言うと椎名誠さんの焚き火やキャンプを
ワイルドにした感じが私の原風景です
息子には「まんが日本昔ばなしで見たことがあります」と驚かれます
そして、となりのトトロの時代でもあります
1950年代の長野の貧しい農村
1950年代後半には安定しましたが、私の幼少期は村ごと停電することがありました
かまどと練炭
里山といえばいいのでしょうか
大人が手入れしてあるので子どもも
ふもとや入口あたりは危険なく利用できます
個人の土地ではなく村の共有林がそこにありました
子どもが背負える小さなかごを背中につけて
お友達と「焚き付けが減って来たから行かない?」と
誘い合って杉や松の葉や枝の枯れて乾燥したものを
拾いに行きました
枯れているから軽いのです
私の故郷で「しょいかご」は、大人が使う大きくて
重い荷物の運搬用の道具なので
大人から見れば小さなカゴです
なお山は怖い面もあるので一人では行きません
燃料になる薪は、大人が共有林から切り出し
半年くらい乾燥させて使います
一時間単位で燃えます
火加減は灰をかけたり薪をくべて調節します
対して練炭は空気の吸い込み口があるので
これで火力を調整できました
キャンプをされる方は新聞紙などで
火を起こすと思うのですが
新聞紙の代わりを、子どもが友達と
おしゃべりしつつ家の手伝いで
拾ってくる感じです
囲炉裏と自在鉤のあるお家もあります
囲炉裏は炭を使えるから
囲炉裏のあるお家や、かまどが幾つかある
お家は練炭は使わないです
我が家は父がシングルファザーなので
家も狭いですから
かまどと練炭で煮炊きしました
調理
お豆腐屋さんのように、お肉も自転車で売りに来ていました
父は仕事で留守なので、品物の良し悪しがわからず買えません
文具もクワも洗剤も干物の魚も、村で必要なものを
扱っている雑貨店が一つあり
お願いすると仕入れの際に買ってきて貰えるので
一つのお店で村の生活は回っていました
父のお使いで干物を買いに行ったことがあります
なお、信号は記憶になく当時の故郷に無かったです
故郷には豊かに川がありますが、農業や家畜の世話で忙しく
あの頃は、釣りをしている人は見かけませんでした
夏休みに泳ぐ子はいます
かまど炊きのご飯
野菜の煮物
そこに厚揚げを入れる
お豆の煮物
漬物
鶏を飼っていますが
卵を産めば売ってしまうので
口に入ることは稀でした
お祝いやお客様をもてなすときに
父が鶏をしめてごちそうしていました
ですから動物性タンパク質はめったに口に入りません
「あんな可愛いものを食べるの?」と
子ども心にショックでした
うさぎは貴重な食料だったようです
私は偏食で肉が食べにくいので食べていません
肉も魚も子育ての必要から食べるようになったのは
ずっとあとのことです
ピクニックの原体験
自然は豊かなので、父の田畑に、父が作ってくれた
弁当を食べたのが、今思うとピクニックみたいなものです
農作業をする牛は、田畑のすみに繋いであり
足元の草をゆっくり食べていました
洗濯と飲料水
家の表に、清潔な農業用の用水路がありました
これはコンクリート製ではなくフナとかドジョウもいます
川から引いたものです
洗剤、たらい、洗濯板は子どもが持っても
重たいものではありません
たらいで洗い、川の流れで濯ぎ洗いをします
目で見ると洗剤が落ちたことは確認できるので
あとは干すだけです
なお、我が家はこの川の水を鉄瓶に入れ練炭で沸かし
煮沸消毒し湯冷ましにして飲んでいました
煮沸消毒だけで浄水器が無くても飲めるくらい
水は澄んでいました
空気も澄んでおり空は高く山は近い環境です
1960年代の東京の下町
中学二年生から東京で暮らしています
中学2年生からは東京で暮らしました。父は仕事が忙しかったので会社で食事をし、私は自炊になりました。お風呂は近くにある銭湯です。田舎の生活と比べると何もかも楽でしたが、一人ぼっち、生き物もおらず、緑もなく寂しい限りでした。それでもハンデのある身には、東京はありがたい街でした。ハンデを感じることなく暮らせましたから。
この時期のことです
商店街とガスコンロ
お買い物は駅前の商店街で買えました
小さなスーパー、八百屋、揚げ物屋、蕎麦屋
味噌汁とごはんを作り
生野菜は商店街で買い
煮豆やコロッケも買って
食事にしていました
コロッケはお肉屋さんで買うのですが
お肉は買った記憶が無いです
今も時々、コンビニでホットスナックを
買うことがあります
もしかすると、この頃覚えた味や懐かしさも
関係するのかもしれません
調理は都市ガスかプロパンガスかは
確認していないのですが
カセットコンロではなくガスが使えました
薪が不要で火力の調節もしやすく便利でした
よそ者が下町の子になること
田舎でも小学校などに水道はありますし
電気もあったので
カルチャーショックは言葉の違いでした
父親の仕事の都合で東京の下町へ引っ越し、不良に目をつけられて、ライターを着火して鼻先に突きつけられた時、静まり返ったクラスで誰も助けてくれないことは理解し、黙って不良を睨みつけて気迫で勝ったらしいです。
息子がまとめてくれています
長野のなまりがあるので
転校して都会の子に笑われて
ムッとして
数ヶ月黙って通学し
都会の話し方をそこで覚えました
洗濯の変遷
最初は下町でも、水道・たらい・洗濯板で手洗いしていました
伯母(父の姉)が近所に暮らしていたので
洗濯機の使い方は伯母から教わりました
洗濯槽は一つで側面にローラーがついており
それで水気を絞り
洗濯槽で流し濯ぎをします
高校生になり住まいが少し広くなり
洗濯機を置けるようになり
二槽式洗濯機を導入しました
マニュアル車と似て
自分で調整出来ることが気に入り
90年代に家電量販店で取り扱いが減るまで
二槽式洗濯機を愛用しました
私は寝具やダウンコートも
自分で洗うことが好きなので
全自動洗濯機に変えても
容量は大きいサイズを使っています
無いことが当たり前の時代を過ごして
古き良き昭和とは思いません
戦後の困窮は物がないことが
当たり前の世界だからです
長野の農村の大人達は苦しそうに働いていました
無ければ無いで創意工夫出来ます
だから、思春期に田舎から都会に引っ越したことは
自分が根を張る過程に大きな変化があるため
理不尽なこともありました
けれど過ぎてみれば
どの環境でも合わせて快適に暮らせる
生きる力は育まれました
都会は暮らしは楽だけど自然がありません
当時は工場の煙などでスモッグもあるため
空は低く、天気が悪いと道も見えにくいほどでした
道路はコンクリート舗装
田畑や山が無い
鉢植え育てないと緑ない
当時の下町は公園も少なかったです
山と空が故郷と違います
関東平野が広く、山が見えないことを記憶しています
今も神奈川の都市部で、建物の隙間から山が見えると
嬉しく感じます
私の心の一部は、今も故郷に置いてきたのかもしれませんね
読んで下さりありがとうございます
