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介護問題の本体──文明は、老いた命の終わり方を難しくした

介護問題は、工夫で何とかなる問題なのか

介護問題はかなり深刻です。

人手は足りない。お金も足りない。介護する家族の負担も重い。
施設も足りないし、現場で働く人たちの待遇も十分とは言えない。

だから国は、介護士の待遇を改善して人を増やそうとしたり、介護ロボットや見守り機器を導入して、少ない人手でも回せる仕組みを作ろうとしています。

けれど、どの方向へ進んでも、今後さらにコストが増えていくことは避けられないでしょう。
これは日本だけの特殊な問題ではなく、長寿化した国ならどこでもぶつかる問題です。

でも、そういう話を聞くたびに、いつも変な感じがします。

そこで考えられているのは、結局のところいつも、「老いた人を最後まで支えるための人手とお金をどう用意するか」という話ばかりだからです。

老いて自力で生活できなくなった人を、社会全体で最後まで支える。
その方向へ進むなら、人手も金も足りなくなるのは当たり前です。

そもそも高齢者の人数からして、物理的にどうにかなるレベルの話なのでしょうか。
これはたぶん運営の工夫で消えるような問題ではありません。


健康寿命を延ばせば解決する?

よく出てくる話として「健康寿命を延ばす」というものがあります。
もちろんそれは一時的な労働力にはなります。

でも結局、
80歳まで元気だったとして、90歳ではどうなるのか。
90歳まで元気だったとして、100歳ではどうなるのか。
100歳まで元気だったとして、110歳ではどうなるのか。

80歳になっても元気で働いている人も、95歳ではさすがに歩けなくなったり、食べられなくなったりして、結局最後は介護のお世話になることになるはずです。

人間が生き物である以上、どこかで必ず衰えは来ます。
健康寿命が延びれば、介護が始まる年齢はいくらか後ろにずれるかもしれません。

しかし、それによって介護に必要な労力そのものが消えるわけではありません。

80歳で介護が必要になるはずだった人が95歳まで元気に暮らしたとしても、95歳で歩けなくなり、食べられなくなり、排泄できなくなれば、その時点で介護は始まります。
健康寿命は、その介護に必要な労力を後ろに送っているだけで、労力そのものを消してはいません。

介護問題は、ただ人手が足りない問題ではありません。
「死ぬまで支えなければならない対象が多すぎる」問題なのです。

でも、そもそもなぜ現代社会はここまで大変な世界になってしまったのでしょうか。

その理由を知るには、自然界の動物たちを見るとわかりやすいです。
人間以外の動物は、老いた親をどうしていたのでしょうか。


自然界では、親を自然の厳しさが殺していた

自然界の動物たちにも、ゴリラに代表されるような高い知能と社会性を持つものがたくさんいます。
彼らは親の介護をどうしていたのでしょうか。

答えは、介護の前に自然界の厳しさが、老いた親を殺していたのです。

老いた親が弱って歩けなくなったり、群れについて行けなくなると、外敵から逃げられなくなるし、新しい食べ物を探しに移動することもできなくるなります。
すると群れは、「親を案じてそこに残って仲間全員で飢える」か、「親を見捨てて進んでいくか」の選択を迫られるのです。

動物たちだってもちろん、親の死が悲しくないわけではないはずです。
親子のつながりがある動物なら、親が弱ることに何も感じない方が不自然です。
はじめはしばらく寄り添ったり、待ったりするかもしれません。
実際そういった、弱った親やパートナーにいつまでも寄り添う動物の姿が撮影されてネットで感動を呼んだりもしています。

でも、自然界は美談のままで終わらせてくれる世界ではありません。

いつかは食べ物や水を探さなければならないし、子どもも守らなければならない。
弱った一体に合わせ続ければ、群れ全体が危なくなります。

だから、どこかで見捨てるしかありません。
それは冷たさではなく、自然の条件です。

動物たちだって、親を見捨てたいから見捨てていたのではないはずです。
どうすることもできないから、自然に従うだけです。

このように自然界では、命の終わりを自然が決めていました。
親が死ぬのは、子どもが決めたことではなく、自然がそうさせたことでした。

そして結果的にこの構造が、「子どもに親を終わらせる判断」を背負わせない仕組みになっていました。

自然界では、親を殺す役割を自然が引き受けていたのです。


文明は、その役割を自然から奪った

人間は文明を発展させることで、自然の厳しさを乗り越えてきました。

食料を作り、家を作り、医療を作り、車椅子を作り、ベッドを作り、施設を作り、自力で生活できない人を支える制度を作った。

その結果、人間は、自然界なら生き続けられなかった状態の命を、死なせずに支えられるようになりました。

食べられなくなっても栄養を入れられるし、歩けなくなっても車椅子に乗せられる。
排泄できなくなっても誰かが処理できるし、寝たきりになっても誰かが薬を飲ませ、医療につなぐことができる。
家族が見られなければ施設に入れられ、施設に入れば介護士が世話をしてくれます。

自然界なら死んでいた親が死ななくて済むようになったのです。
これは文明の成果です。

しかし同時に、文明は自然が担っていた役割も奪いました。

自然界では、老いた親が動けなくなれば、そこで終わりに向かいました。
病気になれば治らないまま死ぬしかありませんでした。
自然は残酷でしたが、その残酷さが命の終わりも決めてくれていました。

ところが現代では、自然が殺していた状態でも、人間社会が生きながらえさせることができてしまいます。

するとどうなるでしょうか。

自然が殺してくれないので、
どこまで生かし、どこで終わりにするのかを、
人間自身が決めなければならなくなりました


自然が殺してくれないなら、人間が決めるしかない

自然界では、線引きは自然がやっていました。

食べられないなら死ぬし、歩けないなら死ぬ。
群れについて行けないなら置いていかれる。
そこに選択の余地なんかなくて、家族はただ受け入れるしかありません。

しかし、現代社会では違います。

食べられない人に栄養を入れることができるし、動けないなら介助できる。病気になれば治療できるし、家族が見られなければ施設に預ければいい。

お金さえ払えば命を続ける手段がいくらでもあります。
そして手段がある以上、それを使うかどうかを誰かが決めなければなりません。

食べられなくなった親に、点滴をするのか。入院させるのか。
施設で看続けるのか。自宅で看取るのか。
どこまで治療して、どこから先は自然な死として受け入れるのか。

これらは全て、自然界なら発生しなかった問いです。
死が自然現象ではなく、選択の問題になってしまったのです。

自然が殺してくれないなら、人間が決めるしかない。
それはつまり、親の命をどこで終わらせるかを、自分たちで決めるということです。

延命治療をしないとか、自然に任せるとか、本人の意思を尊重するとか。
それらはすべて、「出来るけどやらない」「ここで死んでもらう」という選択を私たち自身が選ぶということです。

自然界で自然が背負っていた役割を、現代では人間が背負わされています。


親の死を、自分で選ぶことはできない

親の命をどこで終わらせるかを人間が決めなければならなくなったとしても、実際にそれを決められるメンタルを持つ人はほとんどいません。

老いた親は、ある日突然、完全な寝たきりの老人として現れるわけではありません。
最初は足腰が弱り、階段や買い物が難しくなり、やがて風呂やトイレにも手助けが必要になっていく。
それでも会話は成立し、こちらのことも分かり、子どもの頃から知っている親の表情や話し方がまだそこに残っているため、その段階で「もう助けない」と判断できる人はほとんどいないでしょう。

目の前にいるのは、知らない老人ではありません。
自分を育ててきた親であり、こちらの名前を呼び、こちらを見て、助けを求める人間です。
その親が足を悪くしたり、食事の準備ができなくなったり、トイレに行くのが難しくなったりした時に、もう自然に任せるべきだと言って放置することは、感情としても社会のルールとしても不可能に近い。
そもそも現代社会では、その状態の親を世話せずに放置すれば家族は責められますし、場合によっては虐待や事件として扱われる可能性もあります。

だから介護は、最初から「命をどこで終わらせるか」という大きな判断として始まるのではありません。
買い物を代わりにする、病院に連れて行く、転ばないように気をつける、薬を確認する、食事を用意する、風呂やトイレを手伝うというように、目の前の困りごとへ一つずつ対応しているうちに、家族は介護の流れの中へ入っていきます。

そして一度その流れに入ると、どこで終わりにすればいいのかが分からなくなります。

最初はまだ会話ができ、まだ親としての連続性があり、まだ助ければ生活できる状態だったからこそ見捨てられなかったのに、
その後さらに弱って、食べられなくなり、立てなくなり、判断できなくなっても、家族は急に「ここから先は終わりにしよう」とは言えません。

昨日まで助けていた親を、今日から助けないと決めることは、家族にとって、自然に任せることではなく、自分が親を死なせる判断をしたことになってしまうからです。

延命しない、これ以上栄養を入れない、もう病院に運ばない、これ以上の治療はしない。
言葉としては「看取り」や「自然な死」と呼べても、家族の感覚では簡単に自然なことにはなりません。
助ける手段がある以上、それを使わない判断にはどうしても迷いが残ります。

だから人は、医者に聞き、施設に相談し、本人の意思を探し、家族で話し合いながら、これは親を見捨てることなのか、それとも自然に任せることなのかを考え続けることになります。

全員が助けようとするから、命は終わらない

しかも、この問題は家族だけで起きているわけではありません。

医者は、目の前の患者に対して、助けるためにできることを考えます。
食べられないなら点滴や栄養の話が出るし、病気があるなら治療の話が出る。
医者からすれば、目の前の命に対して医療として何ができるかを考えているだけです。

介護士も同じです。
施設で任された老人が食事を取れない時に、「この人はもう無理だから、今日は口元にご飯を運ぶのをやめよう」とはなかなか考えられません。
目の前に食べる力が落ちた老人がいれば、食べやすいように姿勢を整え、声をかけ、スプーンを口元へ運び、飲み込めるかを確認する。
それは介護士の仕事であり、同時に、目の前の人間を助けようとする普通の反応でもあります。

施設も、預かった人を放置するわけにはいきません。
家族から預かり、仕事としてお世話をする以上、「もう弱ってるから自然に任せるべきなので世話をやめます」とは言えません。
施設は施設として、預かった人を生かす方向に動きます。

つまり、家族も、医者も、介護士も、施設も、それぞれの場所ではかなり自然なことをしているだけです。
誰かが悪意を持って、老いた命を無理やり長引かせようとしているわけではありません。

でも、全員がそれぞれの場所で助けようとするから、命は終わりません。

自然界では、親が弱れば自然が強制的に終わらせていました。
食べられないこと、歩けないこと、群れについて行けないことが、そのまま命の終わりにつながっていました。

しかし現代社会では、その一つ一つにいろんな誰かが介入します。

食べられなければ食べさせる人がいるし、歩けなければ支える人がいる。
家で見られなければ施設があるし、体調が悪ければ医療もある。
そうやって自然界なら終わりになっていた場面ごとに、人間の手が入ります。

だから介護問題は、誰かが間違って起きているのではありません。
全員が目の前の命を助けようとするから、老いた命の終わりどころがなくなっていくのです。


文明は、老いた命の終わり方を難しくした

ここまで見れば、介護問題が単なる人手不足や財源不足の話ではないことが分かります。

医療があり、潤沢な食料があり、家があり、介護の仕組みもある。
その条件がそろえば、人間は老いた親をどこまでも長生きさせたいと考えます。
これは日本だけの問題でも、特定の制度だけの問題でもありません。
目の前に弱った親がいて、助ける手段があるなら、人間は助けようとします。

しかし、それを現役世代の労働力で支えようとするなら、社会が重くなるのは当たり前です。

自然界では、働けなくなった命は、そこから長く生き続けることができませんでした。
自分で動けなくなれば、自動的に命は終わりに向かいます。

自然界では、働けなくなってから死ぬまでの長い「介護期間」そのものがほとんど存在できないのです。

ところが文明社会では、働けなくなってからも命を支え続けることができます。
働けなくなった人を年金で支え、歩けなくなった人を介護で支え、食べられなくなった人を医療で支え、排泄できなくなった人を誰かの手で支える。
自然界ならそこで終わっていた命を、人間社会は現役世代の労働力で支え続けているのです。

介護問題は、誰かが間違っているから起きているわけでも、小手先の工夫で消える問題でもありません。
自然界なら終わっていた命を文明が終わらせなくし、その命を人間の善意と労働力で支えようとしている。そこに、この問題の本体があります。

文明は、老いた命を守れるようにしました。
その代わりに、人間が本能的には引けない線を、人間自身に引かせるようになりました。

だから、老いた命の終わり方は、ここまで難しくなってしまったのです。

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