ピンチが生む名女優
ピンチは名女優を生み出すものだ──と、朝ごはんの準備をしながら、在りし日の渋谷を思い出していた。
先日、渋谷駅で改札を出るとき、危機的状況に陥った。人にぶつかりそうになり、「すみません」と言いたかったところ、「す」と「そ」の中間みたいな音が出てしまったのである。
声を出した瞬間、「しまった」と思ったけれど、もう遅い。このままだと「そみません」になってしまう。「そみません」は絶対に避けたい。クセが強すぎる。
さて、どうする……?
人は、危機的状況下において、ものすごいブレイクスルーを起こすことがある。このときもそうだった。脳がすこぶる回転力で思考をした結果、私はひらめいてしまったのだ。
そう、ここは大都会渋谷。
日本人のような見た目でも、国籍はさまざま。いろんな人が、いろんな目的で改札を通る。
つまり私も「日本人っぽいけど日本人じゃない人」に見えなくもない……!
私は英語ネイティブで、今日本で生活しているだけなんですよ。ビジネス日本語は問題なく習得しているけれど、とっさに出ちゃうのは英語なんですよ。
いける……!
もはや、これしかない!
私はむしろ強く「そ」に寄せる形で「sorry……」とささやき、この危機的状況を乗り切った。
意味は「すみません」と同じ。発音の不備については、小声なのでたいした問題にはならない。打開策としては完璧だ。
人は命を手放す瞬間、記憶が走馬灯のように巡るのだという。そんな一瞬の時間で……? と思うけれど、打開策を0.0001秒程度でひらめいたことを考えると、あながち嘘でもない気がする。
そういえば。
私は危機的状況を、女優の仮面をかぶって乗り越えてきた。
危機的状況にもさまざまあるけれど、私の場合は「営業」がそれに当たる。
上京して数年は、原宿や表参道を歩くのが億劫だった。あの辺りには、美容師の卵さんたちの人口比率が異常に高くて、ちょっとでも髪がモサっとしようものなら「これから髪切りませんか?」と声をかけられるのだ。
「すみません、すみません」と目すら合わせず立ち去るのがいいのだろうけれど、その態度に、自分自身の胸がしめつけられる。断りきれずに何度も髪を切るハメになった。
「これから髪切りませんか?」
何十回目かわからない営業に出くわしたある日、私はひらめいた。相手を傷つけず、私も傷つかず、ふりきる方法を。
「これから切りに行くんで大丈夫です」
これである。
偶然だけど、今私は、髪を切りに行くためにこの街を歩いているんですよ。なんなら予約の時間にちょっと遅れそうなので急いでいるから、ぶっきらぼうに聞こえたらごめんなさいね、では失礼。
天才……?
この方法を思いついてからは、美容師の卵さん比率が人口の98%の街であっても、悠々と歩けるようになった。
(かつて美容師の卵さんだった人がいたら、ごめんなさい。何度も切ったので許してください)
20代に差し掛かると、今度は「マンションの購入、お考えじゃないですか?」ホイホイになってしまった。
老け顔だったせいか、いやこの歳で買わんだろ! と言う年齢でも、よくマンションの営業に声をかけられたのだ。
こればかりは「今から買いに行くところなんです」では難しい。あ、大丈夫です……と立ち去りながら、またしても私の胸は痛んだ。
胸の痛みが限界に達したとき、私は蝶になった。
そう、私はたまたま日本に遊びにきている東洋系。友人の家に向かう途中で声をかけられたけど、日本語ができるわけじゃない。
申し訳なさそうにはにかみ、合掌ポーズで「ごめんなさい」の気持ちを表明する。
見た目には、ただの営業回避と変わらない。
ただ、買わないことに対してではなく、語学ハードルとしてコミュニケーションを断念するというロジックで、胸の痛みの種類を変えることに成功した。
(マンション販売の営業さん、本当の旅行者のみなさま、ごめんなさい)
擬態は、生きる知恵。人生の潤滑油だ。
自分ではないナニモノかに擬態することで心を守り、相手を傷つけず、状況を打開するという方法は、意外と有効なんじゃないかという気がしている。
駅でとっさに「sorry」と切り替えることができたのも、この下地があったからかもしれない。人生には、無駄な経験など一つもないのだ。
混んでいる駅を歩く際は、常に「す」「す」「す」と準備運動しておこうと思いながら、朝食用の卵を割る朝である。
ああでもない、こうでもない——
思考は泡沫。朝キッチンに立ち、ぼんやりと浮かんでは消えていく、日常の思考エッセイの連載です。
【back number】
#1 プリンと、夫と、修造と
#2 1. 0倍速の失恋
#3 「らしさ」の残骸
#4 お弁当の圧力
#5 掃除後のジレンマ
#6 家事が家出したかもしれない
