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プリンと、夫と、修造と

少し肌寒くなってきた早朝のキッチンでお湯を沸かしながら、先日出会った不憫なプリンについてぼんやり考えていた。


私には昔から頑ななところがある。頑固な方だと、自分でも思う。

たとえば、「食べ物をイチバンおいしい状態でいただく」ということに、人一倍執着している。パリパリも、サクサクも、とろ〜りも、おいしさの瞬間最大風速を捉えたい。

食へのこだわりが強いことで有名な松岡修造にも、数々の逸話がある。天ぷらを揚げたてで食べたいあまりに、奥様に揚げさせ続け、その横でひたすら食す話を聞いたことがある人も多いだろう。

仰天エピソードにされがちだが、彼の気持ちはよくわかる。食べ物がもっとも輝く刹那を理解し、うやまい、ただ無心に向き合っているだけなのだ。おいしさの瞬間最大風速を捉えようとするとき、私の心は常に、修造とともにある。



そんな私たち(私と修造)に、事件が起きた。

先日、夫とジョリーパスタに行ったときのことだ。

在宅勤務の日のランチは、家で適当に済ませることがほとんどだが、タイミングが合えば外で夫婦ランチをする。その日夫が指定したのが、近所のジョリーパスタだった。

店に入ってすぐ、夫はパスタを、私はドリアを注文する。セットのスープで冷えた体を温めているところに、夫が頼んだパスタが運ばれてきた。ほどなくして、私のドリアも到着。

さて、いただこう。と思ったそのとき、店員さんがチラッと我々の様子を伺い、声をかけてきた。

「あの、プリンはいつ……」

プリン? 夫が頼んでいたのだろうか。タッチパネルでの注文だったから、気づかなかった。食後に食べるつもりなのだろう。そんなの、食後に持ってきてもらうに決まっている。

しかし、次の瞬間、夫は衝撃的な言葉を口にした。

「あぁ、プリン。もう持ってきちゃってください



え……?


今、なんて?


「あっ、もう、すぐにお持ちしてよろしいですか?」

「はい」



待て。待て。待て待て待て待て。待ってくれ。
よろしくない! 全然よろしくない!!

瞬時に、私の中の修造がものすごいスピードで走り出す。手にはもちろん、テニスラケットを握りしめている。いけ! いけ! 修造!

食後に食べる冷蔵のプリンを? 今もってくる、だと? 言語道断、笑止千万。


店員さんに向かって「食後で! 絶対食後でお願いします!」と、喉から高速スマッシュを叩き出そうとした瞬間、店員さんは「承知しました〜」と笑顔で立ち去ってしまった。

承知、されてしまった。間に合わなかった。
あまりにあっけない試合だ。試合と呼べるのかさえわからない。

やり場のないスマッシュと、激しい悲しみだけが、私たち(私と修造)の中に漂っていた。熱々のドリアを口に運びながら、温度を感じないほどに、私たち(私と修造)は動揺していた。


……こうなったら、夫に向けて、敗者復活戦を持ちかけるしかない。

「……プリンさ、今持ってきてもらって、すぐ食べるの? その……冷えてるやつを食べた方がおいしいんじゃない?」

丸くなった修造が、めちゃくちゃ、めちゃくちゃ気を遣って、ラリーを打ちはじめた。

人には好みがあり、それぞれに人生の哲学がある。冷えたプリン絶対主義は私の主観であり、夫にとってプリンの温度にこだわりはないのだろう。
そんな「ズレ」は、寄り添った十数年で数えきれないほど感じてきたことだ。今さら驚かないし、ズレを矯正しようとも思わない。

パスタとプリンを行き来しながら味わう楽しみがあるならば、もちろん堪能してもらって構わない。しかし夫は、デザートはきっちり、食後に楽しむタイプなのだ。私が知る限りでは、凛とした佇まいのプリンがだれていく姿を眺めて楽しむ趣味もない。

修造のラリーに対して、夫は「別にいつでもいい」と投げやりなボールを打ち返した。

ベツニイツデモイイ……


ボールが地面に転がる。修造がラケットを放り出し、ガクッと膝を落としている。魂を抜かれたような表情で、汗か涙か、それとも、心の傷から流れる血か──出どころがわからない液体を、顔いっぱいに滴らせている。


ごめん、修造。こればっかりは、仕方ない。
彼には彼のセオリーがある……!

そっとタオルを差し出すと、修造は弱々しく受け取ってから小さく頷き、そのままスーッとどこかへ消えていった。

万事休す、である。悲しいけれど、プリンを食べるのは夫自身だ。「半分こしようね」といった約束をしていたなら、こちらにも一定の主張権は認められようものだけれど、プリンの采配は本来私の預かりしれないところにある。

修造が去り、一人ぼっちになった私と夫の間に、店員さんがプリンを差し出す。

イタリアンプリン 290円(税込319円)


お皿は、これ以上にないというほど冷えていた。
キリッと律儀に姿勢を正したプリンが、輝ける眼差しをこちらに向けてくる。さあどうぞ! どなたでも! 今が一番、おいしいですから!……

あまりの眩しさに、私はそっとプリンから目線を逸らす。

このクリームが、重力と温度に耐えられず失意のうちに朽ちていく未来を想像すると、とてもじゃないが見ていられない。

固く身を寄せ合っているプリンが、今からゆっくり、ゆっくり、放置という形で奪われていくのだ。ひんやりと冷たいことで培っている、アイデンティティのすべてを。



その後、夫がパスタを食べ終わるまで、プリンはただテーブルに鎮座していた。夫がようやくプリンに手を伸ばしたのは、どれほど後のことだっただろう。

夫は私の悲しみなどには目もくれず、涼しい顔をして「食べる?」と聞いてくる。

明らかにぬるく、ダレはじめたそのプリンを、改めて見つめる。これ以上悲しい気持ちになりたくない。しかし……


「……うん」


覚悟を決めて、そっとスプーンをプリンに割り入れる。固いはずのプリンは想像より抵抗がなく、スプーンが中へと進む。時間の経過を物語るには十分なスムーズさだった。

一口食べると、少しくどいカスタードの味わいが、口いっぱいに広がる。冷えていれば心地良かったはずの、計算されたくどさだ。

「……おいしい」

せめてものはなむけにと、私はそう呟く。
口の中には、いつまでも、いつまでも、切なくてぬるいカスタードの余韻が響いていた。


===

シュシュシュッと、やかんが音を立て始めている。

肌寒くなってきたので、朝は体が温かいものを欲する。そのまま飲む白湯もいいけれど、なにかお茶を入れてもいいな、と思いながら、決めきれずにカップにお湯を注ぎ、残りを保温ポットに移す。

夫はあのプリンが好きなのだという。冷えたプリンも、ダレたプリンも、どちらも好きなのだろうか。プリンそのものの存在を受け入れている夫は、もしかしたら私よりもずっと愛情深い人なのかもしれない。

プリンの方は、どうだろう。どんな姿でも愛される世界線と、価値が最大限高められたところを味わい尽くされるのと、どちらがより好ましいのだろう。


カップから立ち上る湯気を浴びながら、冷める前に……と、私は熱々の白湯をそっと口に含む。白湯の瞬間最大風速が、体に駆け巡る。そのまま飲み込むと、お腹の奥まで、じんわり温かい。

温まったお腹の、さらにもっと、ずうっと奥の方で、修造が心地よさそうに伸びをするのが見えた。





※愛情と敬意を持って、あえて「修造」と呼ばせていただきました



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