二十世紀日本へのタイムトラベル


2010年代後半にはまだレンタルビデオ店が町中にありましたが、今では何でも配信、通販、となりつつあります。


長年写真を撮りためて保存すれば、そのアーカイブは当時の社会へのタイムトラベルになります。🌋🐳

ダイエー京橋店は、昭和の一億総中流社会の写し鏡でもありました。
※一九七一年開店、二〇一九年閉店

昭和期のGMS[総合スーパー]は、商店街や地域社会を完全には破壊せず、人々の雑多な、日常世界を包む役割を果たしていました。

2022年11月に急逝した、生涯個人商店を営んだ父親も、
昭和型GMSについては、それほど悪くは言っていなかったような気がします。
父親の訃報後、真っ先に訪れたのはなぜか、ダイエー京橋店跡地でした。
ここでは、在りし日の昭和型GMSについて考えます。


昭和と二十世紀

父親の訃報後、たしか翌日だったと思いますが、なぜか、真っ先にダイエー京橋店跡地を訪れました。

それは今思えば、生涯個人商店を営んだ父親が昭和型のGMSに投影されていたからだと思います。
2005年冬に、五島列島行きの飛行機便を手配したのも、そのなかの旅行代理店でした。



2019 HEISEI OSAKA

突如大阪の街にやってきた、バブル化身父親と十年ぶりに再会した平成三十一年[2019年]四月。
このとき真っ先に向かったのも、なぜか、ダイエー京橋店でした。当時撮った写真はそのまま残っています。

街の風景と溶け合っている様が確認できます。

昭和型のGMSは、ミスドひとつとっても、現代の均質空間とは、ひとあじもふたあじも違いました。

空中回廊の『大阪城京橋プロムナード』で、京阪京橋駅、大阪ビジネスパークとも直結していました。
※店舗敷地の部分以外は、現在も遊歩道はあります。




昭和型商業施設のGMSは用途も様々でした。
5階と4階のあいだには、謎の大階段がありました。
それはボーリング場の名残だったとか。
また、そのフロアは後に、昭和期には十年ほど、寄席の劇場として機能していたとか。
平成生まれの筆者が生れる前の話です。

現代社会の無縁社会、均質空間は、だれの願望に基づいているのでしょうか❔
〘Google Map〙大阪城-京橋




⇧去年(2025年)の9月の段階では、なぜかダイエー京橋店が航空写真に映っていましたが、今日みると、現在の駐車場に変更されていました。



『京橋』は、前近代における京都と大坂城をつなぐ、『京街道』の先端にある橋を意味する地名です。
そこに、戦前の大阪砲兵工廠、京橋空襲、戦後の市場や商店街、GMS、そして大阪城ホールなどの近代的風景が集積されてきた、日本屈指の歴史的都市です。


しかし、大阪もかつてなく『キレイ』に変貌しつつあります。どこもかしこも全国品質のチェーン空間に整備されています。消費以外の無駄な外出や人付き合いを許さない、徹底監視の完全無菌室です。

他府県の人が大阪に期待する、雑多で『DEEP ディープ』な大阪は、保存されずに破壊されていっているのが現状です。
昭和期の街並み[関西]

昭和時代の街並みは、いまのようにモールなどの商業施設がひとつで生活を包み込む都市ではなく、また、ネット通販も存在せず、
異なる役割をもつ様々な建物が、鉄道駅・商店街・市場・野球場などの周囲に重なり合って、街そのものが複雑に重なって集積した都市でした。
大阪で言えば、難波には『大阪球場』があり、1950年開場で南海ホークスの本拠地となりました。所在地は大阪市浪速区難波中で、難波の都心商業地にプロ野球の本拠地があったのです。
※現『なんばパークス』
また、森之宮には『日生球場』があり、1950年開場、近鉄が1958年から本拠地として使いました。
※現『森之宮キューズモール』

人は本来、合理以外の都市も建築できるはずだと確信させられます。
さらに阪急は1937年開場の『阪急西宮球場』を拠点とし、在阪私鉄と球場、沿線開発、都心ターミナル文化が強く結びついていました。
※現『西宮ガーデンズモール』
つまり昭和の関西では、鉄道会社・百貨店・球場・住宅地・商店街が一体で都市を形づくっていたのです。
この時代の街並みの特徴は、都心の中に巨大な娯楽施設が平然と埋め込まれていたことです。
いまの感覚では、難波や森之宮のような都心近接地に大規模球場があるのは異質に思えます。
しかし昭和の都市では、球場は郊外ではなく、商業地や住宅地や交通結節点と地続きの存在でした。
NPB(日本野球機構)のホームページでは、大阪球場について、
難波という「大阪における商業の中心地・ミナミの玄関口」に建てられた
と説明されています。
また、日生球場もJR大阪環状線・森ノ宮駅から徒歩5分の好立地にあったと記されています。
こういったことは、二十世紀には、野球観戦が日常の延長線上にあり、仕事帰り、買い物帰り、学校帰りの都市生活に組み込まれていたことを示しています。
昭和の街並みとは、生活・労働・娯楽が一体で、地続きで、分離されていない街並みだったのです。

しかも、人口減少時代で画一的景観の現状維持が精いっぱいの現代とは違って、20世紀は建物自体の種類がいまよりはるかに雑多で、しかも近接していました。
昔の大阪では、駅前に百貨店があり、その横や裏手に個人商店、映画館、喫茶店、旅館、診療所、薬局、
履物店、文具店、電器店、金物店、書店、銭湯、銀行支店、市場、長屋、文化住宅、社宅、町工場などが入り混じっていました。
巨大ショッピングモールのひとつの建物が、すべての都市機能を独占するのではなく、多様な建物が街区単位で積層していたのです。
※モールやネット通販にも良さはあり、その存在を否定しているわけではありません。

大阪市史の目次でも、戦後復興期の大阪は
「商店街の復興」「公設小売市場」「私設小売市場」「スーパーマーケット」などが並んで現れ、同じ都市の中に複数の小売形式が併存していたことが読み取れます。
また、昭和の街並みは、市場と商店街との密度が非常に高かったことも重要です。
たとえば大阪・千林では、公設市場の開設、私設市場の登場、商店街の拡張、1958年のアーケード完成、さらに1957年のダイエー出店などが重なっており、戦後の街並みが「市場+商店街+新型スーパー」の重層構造だったことがわかります。

大阪市の資料では、『森小路公設市場、千林市場、アーケード、映画館、娯楽施設、そしてダイエー・イズミヤ・ニチイ・長崎屋などの出店』が同じ文脈で語られています。
つまり昭和後半の街は、いまのようにモールやネット通販が旧市街を代替するのではなく、古い街の中に、新しい商業形式が差し込まれていく街でした。新旧が入れ替わるのでなく、同居していたのです。
https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/cmsfiles/contents/0000174/174707/P034-035.pdf?utm
そして、昭和の街並みでは百貨店が駅と直結し、都市文化の核になっていたことも重要です。
百貨店は食堂、催事場、屋上遊園、贈答、衣料、雑貨、文化展示の役割を果たしていました。昭和の大阪では、デパートのような近代モダン、商店街的生活、市場と長屋という景観の重なりが集積していました。
要するに、モールや通販がない時代の街並みは、消費以外の「用事のない回遊」を成立させていました。
いまのモールは、一つの大建築の内部に店、フードコート、映画館、広場をまとめます。通販はさらに、街に出ずに購買を完了させます。
ところが昭和では、生活の機能が街に分散していました。魚屋、パン屋、米屋、酒屋、ケーキ屋、豆腐屋、カメラ屋、書店、薬局、映画館と、買い物や余暇のために人は街を歩き回る必要がありました。
昭和の街並みは、店から店へ、施設から施設へ歩くこと自体が、日常生活の形式だったのです。
その街並みの魅力は、一つの巨大建築ではなくて、建物どうしの隙間と、人々の対面の会話の連なりから生まれていました。

そして、前述の通り、昭和の都心球場は、街並みに巨大な非日常の起伏を与えていました。
難波の大阪球場は、NPBのホームページでは「焼け跡にバラックが建ち並ぶ街に、こつ然と姿を現した鉄筋コンクリートの球場」と描写されています。
日生球場もまた、森之宮のオフィスや住宅や鉄道駅の近くに、大きな非日常の開放空間をもたらしていました。
こうした球場は、視覚的にも音響的にも、都市に大きな変化をもたらします。試合のない日も巨大な建築の塊として存在感を示し、試合の日は、人の流れと歓声で膨らむ。
昭和の街並みは、こうした文化的な巨大施設の、生きられる呼吸を含んだ街並みでした。
現在のオフィス街やモール街が比較的均質なのに対し、昭和の都心は、日常の真ん中に、突出した磁場をもつ建物が鎮座していたのです。
さらに、昭和の街は建物用途が現在より粗く、雑多に混ざっていました。
現代都市では、人口減少下の財政難により、用途地域、再開発、チェーン化、コンプライアンス、物流の標準化によって、
街並みが究極的に合理化・効率化されます。

対して昭和では、商売と住居が同じ建物に入ることが多く、表が店、奥、上階が家族の住居、生活空間という形式も珍しくありませんでした。
二十世紀の街並みとは、建物用途が分離される前の、生活と商売、公と私が混在した街並みでもあったのです。
そして、昭和後半の大阪では、GMS(総合スーパー)やチェーン店が登場しても、まだ街そのものを消し去るほどの一極集中ではありませんでした。
これは、昭和のスーパーが最初からモールのように単独で都市を完結させたのではなく、既存の商店街や市場と競合・共存しながら育ったことを意味します。
だから昔の街並みには、個人商店だけでなく、新しい量販店やチェーン店も混ざっていましたが、それでも街全体はまだ分解されていなかったのです。

要するに、昭和時代の街並みは、
球場・百貨店・市場・商店街・映画館・喫茶店・個人商店・長屋・事務所・工場・住宅が、鉄道駅を核に近接しながら重なっていた都市計画に依拠していました。
大阪ではそれがとりわけ強く、難波に南海の大阪球場、森之宮に日生球場、梅田にターミナル百貨店、各地に市場と商店街があり、
私鉄会社が都市の骨格をつくっていました。
※昭和大阪・兵庫の私鉄球団:①阪神タイガース
②阪急ブレーブス
③近鉄バファローズ
④南海ホークス
(全国では『国鉄スワローズ』、『西鉄ライオンズ』もありました)

モールやEC(ネット通販)がない時代だからこそ、
人は街に出て、建物から建物へと移動し、そこで偶然に他人と出会い、交流しました。
昭和の街並みの魅力、
それは用途も規模も階層も違う建物が密集し、生活そのものが、人生の舞台が、街のなかに存在していたことにあります。
🎼『口笛』 2000年1月13日
🐶More 昭和🐶


2017年旧館閉鎖






















🍵最新記事📕です✨ぜひご覧ください😙🐴

