『海がきこえる』を観て―時間と距離が教えてくれるもの―
Filmarksのリバイバル上映企画で『海がきこえる』を見てきた。
昨年の渋谷Bunkamuraでの上映が好評だったこともあってか、今回は全国で三週間限定の公開。
私は昨年のリバイバルで初めてこの作品を見ることができ、今回も初日に足を運んだ。
『海がきこえる』は、72分の短い映画だ。
けれど、記憶と今の自分が静かに交差するような、時間と距離の物語が詰まっていた。
知らないはずの時代なのに、観終えたとき、なぜか懐かしかった。
見に行こうか悩んでいる人がいたら、ぜひ見てほしい。
『海がきこえる』は、タイトルは知っていたが、長らく観る機会がなかったジブリ作品だった。
なぜなら、これはテレビ用に制作された作品でありながら、放送されたのは二回のみ。他のジブリ作品と比べても極めて少ない。
過去のジブリ作品に触れるきっかけが『金曜ロードショー』である自分のような世代にとって、この作品は距離があった存在だった。
そんな中、2020年にジブリのサウンドトラックがサブスク解禁され、『海がきこえる』の音楽にも偶然出会った。
穏やかで美しい音楽に心惹かれ、いつかこの作品を映画館で見れないかと願っていた。
以下、ネタバレを含む形で映画の感想や思いを記載していく。
1.「平成初期の空気感」が詰まった作品
まず触れたいのは、作品に満ちる「平成初期の空気感」だ。バブルは終わりかけ、それでもまだ街にはその香りが残っていた時代。
1993年生まれの筆者にとって、まさに自分が生まれた時代の空気感が瑞々しくつまっていた。
スマホはもちろん携帯電話はなく、ブラウン管テレビからはカセットテープのCMが流れていた。ラジカセでFMを聞き、『ぴあ』は雑誌で現役。ペットボトルではなく、缶飲料が主流。吉祥寺駅の中央線はオレンジ色の旧型車両だ。
自分が子供の頃に「なっちゃん」を飲んでいたことや、電車が好きだった幼き頃を思い出す。


今観ると、具体的に「当時」を感じさせるアイテムが多い。
けれど不思議と、その風景がノスタルジーでは終わらない。
それは、この作品が“その時代だけの話”ではなく、今も通じる普遍的なテーマを持っているからだ。
2.これは「時間」の物語である
この作品は、青春、友情、恋愛といったテーマを描きながらも、「時間」の物語だと感じた。
作中で描かれた、拓と松野の友情に生まれたズレ、杜崎と里伽子の心のすれ違い、里伽子と清水をはじめとするクラスの女子との不和、これらは「時間」が解決してくれた。
多くの人が少なからず似たような経験をした事があるだろう。
時間が流れたからこそ、ふと気づく誰かの優しさがある。後悔とともに、それでも自分なりの答えを持てるようになる。
あのとき抱えていた苛立ちや不器用な感情は、時間が経ってからこそ、見えてくるものがあるのだろう。
3.「距離」の物語でもある
この作品はまた、「距離」の物語でもあると感じた。
地理的には、高知と東京という物理的距離がある。
飛行機の所要時間は当時も今も変わらないかもしれないが、ネットやSNSのない時代、心理的距離は地図上よりも遥かに遠く感じただろう。

そして描かれるのは、地理だけでないさまざまな「距離」だ。
拓と松野の間の友情の揺らぎ、拓と里伽子の心の距離、里伽子と両親の関係。
また、高校生と大学生の間の1年という時間すらも、大人になってからの1年とは違う大きな意味を持つ時間的距離だった。
この距離が出来た事で、拓も「むだ話をしたかった」「ああ、やっぱり僕は好きなんだ」という心情にたどり着いたのだと感じた。
時間と距離ができることで、人は変化し、成長し、見えるものが変わっていく。そのプロセスに、心打たれたのだ。
4.一歩引いて見えてくるもの
時間と距離を経て見えてくるもの。このことについて考えている時に、ふと思い浮かんできたのが、筆者の好きな乃木坂46の楽曲だった。
2021年にリリースされた『僕は僕を好きになる』という楽曲がある。この曲にこんな一節がある。
人生は近過ぎちゃ見えなくなる 一歩引いて見てごらん
人間関係も、自分の気持ちも、近すぎると見えなくなる。一生懸命だからこそ、一歩引く選択ができないこともあるだろう。
それでも、離れて見た時に、ようやくその意味や美しさに気づくことがある。
後悔やすれ違いも、未来から見れば通過点や成長の種に変わるかもしれない。
5.吉祥寺、成城学園前、調布――駅と街について思うこと
吉祥寺という場所の選び方も絶妙だ。
吉祥寺駅周辺は言わずと知れた「住みたい街」の代表格であり、学生や若者を中心に人気が高い。
JR中央・総武線と京王井の頭線が乗り入れており、それぞれの島型ホームがあるので、劇中のような線路を挟んだ再会が可能なのだ。
駅周辺は活気ある繁華街が広がる一方で、井の頭公園も近く、洗練されすぎない生活感がある。
その一方で、里伽子が東京で暮らしていた「成城学園前」は小田急線駅であり、日本有数の高級住宅街だ(現在の「成城学園前駅」は駅が地下化されているが、作中の駅はまだ地上にあったのも趣がある)。
吉祥寺と比べても「閑静な住宅街」であり、街の雰囲気がまるで違う。

この沿線の比較をした時に、筆者の好きな映画『花束みたいな恋をした』に思いを馳せずにはいられなかった。この作品では明大前や調布など、京王線沿線が印象的に描かれていた。
調布駅も地下化され、駅周辺は再開発が進み、多くの家族連れや地元の人で賑わっている。生活感があり、非常に暮らしやすいエリアだ。
個人的な印象だが、最も肩肘張らずに生活ができ、家賃もお手頃だ。
中央線、小田急線、京王線、どの路線も新宿で交わり、それぞれの郊外へと向かっていく。
これらの路線と、吉祥寺、成城学園前、調布というエリアは近くにあるようで、それぞれのカラーがあり、作中での使われ方が絶妙であった。
『花束みたいな恋をした』が『海がきこえる』を意識していたとは思わないが、この作品も恋愛映画のようで「時間」を描いた作品だと感じており、その点では共通しているように感じる。
また、作中の麦と絹は少なからず「海がきこえる」を好んでいそうだとは思った。
6.そして「越える」物語でもある
物語のラスト、吉祥寺駅で線路を挟んで反対側のホームに里伽子らしき人物を見かけ、拓は走り出す。
映画の序盤では、里伽子が高知にいると思っていたこともあるが、動き出せなかった拓が能動的に行動する。
この描写はとても象徴的だ。かつて越えられなかった「距離」を、自分の意志で越えようとする瞬間。
時間が経ち、自分自身の気持ちに気づいたからこそ、選べた行動。
これは単なる「過去との和解」ではない。時間と距離が感情を変え、その結果、ようやく“越えられる”ようになったのだと思う。

7.『海がきこえる』というタイトルの美しさ
そして最後に、このタイトルそのものについて触れたい。
作中で描かれたのは、恋愛や友情といった「青春」と呼べるような日々がメインだが、描かれなかった生活の方が遥かに彼等にはある。
自分も学生時代を振り返ったとき、大きなイベント事やインパクトのある出来事は特に鮮明に覚えている。
その一方で代わり映えのない毎日が大半を占め、辛かった出来事も少なくなかったと思う。
それでも、いまは思い出せずとも、悩みもがきながらも楽しかった時間は確かに存在していた。
良いことも、悪いことも、自分を形成したすべてを「海」と呼ぶのだと思う。
それが能動的に聴こうとしなくとも、ふと「きこえる」のである。
(ちなみに、この作品の2年後に公開された『耳をすませば』(こちらは京王線・聖蹟桜ヶ丘駅周辺が舞台)は、「耳をすます」という能動的な姿勢である)
“きこう”としなくても、“きこえてくる”という静かな受動性。
それは、記憶というもののあり方そのものであり、青春という時間の尊さを、まるごと包んでくれる優しい構造だ。
だからこそ、この映画は平成初期の空気感を詰め込んでいるが、普遍的でもある。
見た人それぞれの海がきこえてくるだろう。

※このnoteを書いた後に『海がきこえる』について新たな記事を書いてますので、よろしければこちらもご覧ください (2025/7/25 追記)
