あの頃は本当に「いい時代」だったのか?ーー『海がきこえる』と2000年代の記憶
3週間にわたって再上映されている『海がきこえる』を観てきた。
昨年、渋谷での再上映で2度観て以来、この作品にすっかり魅了されてしまった。
今回の再上映期間中だけでも3度足を運んでおり、何度観ても新しい発見がある魅力がある。
海の日限定の入場者プレゼントもあってか、チケットは完売。
客層は幅広く、同世代と思しき20~30代の姿も多くみられた(ちなみに、当日は『鬼滅の刃』と『国宝』も完売で、映画館はかなりの混雑ぶりであった)。

本作は、自分が生まれた1993年にテレビ放送されたジブリ作品だ。作中には当時の空気感が、真空パックのように詰め込まれている。
見終えたとき、ふと「おおらかで、良い時代」だったと感じた。
でも、それは本当に“自分にとって”いい時代だったのだろうか。
そう考えたのは、この作品が単なるノスタルジーでは終わらず、見る人それぞれに「自分にとってのあの時代」を問い直させる力を持っているからだ。

そんな問いから、このnoteでは『海がきこえる』を入口に、2000年代の自分自身の青春時代を振り返り、「いい時代」とは何かを考えてみたいと思う。
※以下、ネタバレを含む。
※『海がきこえる』については、こちらのnoteでも記載しています。あわせて読んでいただけると幸いです。
1.おおらかな時代の空気感
本作は多くのジブリ作品の中でも特異で、テレビ放送は初回を含めてわずか2回だけだった。
72分という短さもあると思うが、劇中の未成年飲酒・喫煙描写が、放送回数の少なさの一因と、都市伝説のように語られている。
物語では未成年の男女が同じホテルに宿泊し、その部屋の冷蔵庫には酒が入っている。
現代の視点からは問題視されそうな描写だが、当時はこうした表現もごく普通だったのかもしれない。
思い返せば、自分が小学校低学年の頃は、父親のおつかいで酒屋で缶ビールを買えていた時代だった。
たばこの自動販売機も街にあり、未成年が手軽に酒やたばこに触れられる社会だった。

また、ヒロインの里伽子はジブリ作品の中でも異質なくらい、気が強い(これは彼女の生育歴や環境の変化によるものだと思われる)。
拓には大金を借りる場面もあり、物言いも率直で厳しい。
現代の感覚では、こうしたキャラクターは誤解されやすく、SNSなどで過剰に反応されることもあるかもしれない。
これらを踏まえ、本作の時代は「おおらかさ」があったいい時代だと憧れを感じる。
ただ、自分は飲酒も喫煙もしない。飲酒によるコミュニケーションが前提の時代を生きていたら、本当に生きやすかったのか。
自分にとってはいい時代だったのか、疑問が湧いてくる。
2.2000年代中盤の学生時代を振り返る
自分が中学生だったのは2000年代中盤。『海がきこえる』の時代から約15年後のことだ。
当時は『ごくせん』の第2シーズンが放送され、KAT-TUNが大人気。湘南乃風の「純恋歌」がヒットし、EXILEや倖田來未もチャートを席巻していた。
一方で『ニコニコ動画』がサービスを開始し、『涼宮ハルヒ』『らきすた』の流行により、いわゆる「オタク文化」が学生の間にも浸透し始めた時期でもある。
当時は「陽キャ」「陰キャ」といった言葉こそなかったが、そういった空気感は誰しもが感じていたと思う。自分はどちらにも属しておらず、どこか生きづらさを感じていた。
ラジオやアイドルが好きだったが、当時は「radiko」もなく、「AKB48」もまだブレイク前で、趣味について話せる相手はほとんどいなかった。
男女問わず友人は多かったと思うが、『KY(空気読めない)』という言葉が流行しており、自分が周囲とは違うようで息苦しさを感じていた。
そうした空気感は細部にも表れていた。当時の男子中学生の多くは『トランクス』が主流だった。
自分は当時から『ボクサーパンツ』派であったが、超少数派で、よくいじられたりしていた。
今となってはボクサーが主流になっていることからも、時代の価値観は変わり続けている。
つまり、懐かしさを感じる瞬間はあるけれど、当時が生きやすかったとは思わない。
むしろ「あの時代の価値観の中で過ごした自分」は、今よりずっと息苦しかったのだ。
3.過去と今をつなぐ『イケナイ太陽』
つい最近、公開されたORANGE RANGEの『イケナイ太陽(令和ver.)』が話題を呼んでいる。
あの時代の小ネタや空気感が詰まっており、懐かしさが込み上げてきた。
大人になってみると、「陽キャ」「陰キャ」のどちらにも属さない人は意外に多く、むしろその方が多数派だったのかもしれない(作中の拓と松野もそうだろう)。
そうした人たちこそ、いまの方が生きやすいのではないか。
スマホの普及とradikoの登場により、ラジオは人気コンテンツのひとつになり、アイドルを「推す」文化も一般的になった。かつていじられていたボクサーも主流になっている。
自分自身が年齢を重ねた影響もあると思うが、当時感じていた孤独感は今はない。多数派が良いわけではないが、多様な趣味嗜好が前提となる時代になったと思う。
振り返ると、空気を読んでは息苦しさを感じていたはずだが、その時代も懐かしく、輝いてすら見える。
それは、「あの頃の自分」がいたからこそ「いまの自分」があると感じるからだろう。
当時の自分も否定しないし、あの頃を懐かしむ今の自分も否定しない。
ノスタルジーはたしかにあるが、「過去が良い時代だった」とも思わない。今は今の良さがある。
4.何歳の頃に戻りたいのか?
過去の自分も、今の自分も否定しない。
そんな思いで未来を見つめていた時、ふと筆者の好きな櫻坂46の「何歳の頃に戻りたいか?」という楽曲を思い出した。
この曲は、自分がnoteで書きたかったことを、そのまま代弁してくれているような内容だった。
2番のサビには、こんな歌詞がある。
本当に あの頃 そんな楽しかったか?
きっと 特別 楽しくはなかっただろう
(Go on back)
思い出の日々は普通だ
目に浮かぶ日々は幻想
美しく見えるだけさ
(Those days)
大人になったその分だけ
青春を美化し続ける
過去を美化し、幻想を抱く大人への問いかけだ。
そして、以下のような歌詞で終わる。
過去に 戻れないと知っている
夢を見るなら 先の未来がいい
過去には戻れない。だけど、過去を否定しないからこそ、今を肯定できる。
そして未来に目を向けていたい。
これはまさに『海がきこえる』を観て、筆者が自分自身の青春や今の生き方に思いを巡らせた結果、行きついた感情と同じだった。
ただノスタルジーに浸るだけでなく、懐かしさが未来の後押しになるように。
では、改めて『海がきこえる』について考えたい。
5.世界が広がり、海がきこえてくる
作中のセリフでもあるが、学生の頃は世界が狭かった。
自分が中高生だった頃にもインターネットは普及していたが、一人一台スマホを持つ現代の比べものにならない。
『海がきこえる』で描かれる1990年代初頭の高知は、それ以上に世界が限られていたのだろう。

とはいえ、大人と比べれば中高生の世界が狭いのは、今も昔も変わらない。
その点で『海がきこえる』は、時代を超えて共感できる普遍性を持っている。
世界が広がり、大人になった今だからこそ、あの頃の狭く閉じた世界を懐かしく思い、「よい時代だった」と感じるのかもしれない。
良いことも、悪いことも、自分を形成したすべてを「海」と呼ぶのだと思う。
それが能動的に聴こうとしなくとも、ふと「きこえる」のである。
(ちなみに、この作品の2年後に公開された『耳をすませば』(こちらは京王線・聖蹟桜ヶ丘駅周辺が舞台)は、「耳をすます」という能動的な姿勢である)
以前のnoteでも、こう記した。
『海がきこえる」とは、ふとした時によみがえる記憶そのもの。青春という時間の尊さを、やさしく包んでくれる作品だ。
6.過去は未来を照らす光
『海がきこえる』が教えてくれるのは、ただ過去を懐かしむことではない。
思い出やノスタルジーは確かに私たちの心を温め、人生の一部として輝く。
しかし、その記憶は単なる感傷や郷愁ではなく、未来へ進むための活力であり、それを支える心の拠り所でもあると思う。
作中のラスト、拓は吉祥寺駅で里伽子を見つけ、反対側のホームへと走り出す。全編を通して、どこか受け身だった拓が、能動的に動く印象的なシーンだ。
拓と同じように、私たちもまた、過去の経験を胸に抱きながら、未来へと踏み出していくのだ。
だからこそ、『海がきこえる』は、時間と距離を超えて、今も未来も照らしてくれる、優しい光なのだと思う。


