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『秒速5センチメートル』——青春に栞を挟む30才のセンチメンタリズム

先日公開された『秒速5センチメートル』を見てきた。
厳密には初日に見た後、早々に2回目を見てきた。

単なる"実写化"ではなく、軸となる根幹はそのままに"再解釈・再構築”されたような印象だった。
原作と同じく「時間」と「距離」についてはもちろん、実写ならではの美しい映像、音楽、繊細な演技とセリフに引き込まれた。

また、とてつもなくパーソナルな"原風景"のようなものに訴えかけられるような作品だった。
自分自身の胸に引っ掛かっていたものが思い起こされ、様々な”あの頃”の空気感がふいに蘇ってくるような感覚だった。

新海誠監督の原作を見た人も、そうでない人にも強くおすすめしたい。
以下、ネタバレを含む形で記載していく。



最高の布陣と1991


今作の制作が発表された際、SixTonesの松村北斗が主演を、奥山由之が監督を務めることも同時に発表された。
この二人がタッグを組むことで期待は高まり、公開が楽しみであった。


追って音楽は江﨑文武、主題歌は米津玄師、明里役には高畑充希が務めることが発表されたが、原作の世界観にマッチした最高の布陣で「素晴らしい作品になるはず」と確信にも近い期待が高まった。

米津玄師の主題歌『1991』は貴樹と明里が出会った年であり、奥山監督と米津、明里役の高畑充希が生まれた年でもある。
江﨑文武は1992年、主演の松村は1995年生まれ。1993年生まれの自分も同世代だ。
原作の公開は2007年で、ちょうど多感な10代に触れた世代。

30歳という年齢の実感、20代とは違うシビアさ、それでも残る青春の残像——それらを現在進行形で「体験している」世代が作るからこそ、原作の世界観を壊さずに新たな「秒速5センチメートル」が制作できたのだと思う。



30才のセンチメンタリズム


今作はそんな30代前半だからこそ描ける、30歳を迎える貴樹の物語だと思った。
実際に原作公開当時の新海監督は34歳で、現在の奥山監督と同じ年齢だ。

一般的に仕事もプライベートも新たなライフステージへと進む年代だが、まだまだ青春時代の残像は鮮明にある。
確実に年はとり、体力も落ちてくるのに、良いことも悪いことも過去の出来事がひっかかるような感覚は自分にもよく分かる。

「今までの自分の歩んできた道は正しかったのか?」
「これからどんな未来に向かっていきたいか?」
と自身に問いかけることが度々あるが、20代の時よりも現実的で、よりシビアな問題だ。

それでも、若かったあの頃の記憶や経験はそう遠くない過去にあるし、その一方で暗闇で行き詰まったような感覚にもなる。

この作品は、貴樹が青春に「栞を挟む」物語だと思った。
過去を捨てるのではなく、思い出として受容し、新たなページを開いていく。
30才の貴樹のパートを丁寧に組み込むことで、より立体的に描いているように感じた。

30才という年齢ならではのセンチメンタリズムが繊細に描かれ、同世代の僕には痛いほど刺さった。

だからこそ、貴樹の姿は前向きなものに感じられた。


停滞しているようで進んでいる


30才になったと話す貴樹に、吉岡秀隆が演じる科学館の館長がかける「30才は生まれてから歩き続けて地球を1周したくらいですかね。ちゃんと進んでいますよ」というセリフが印象的だった。

貴樹はいわゆる”雑談”を「無駄」「生産性がない」と話し、他者との交流を避け、付き合いが良いとは言えない。彼には喪失感が漂い、出口の見えないトンネルの中を彷徨っているようだった。

30才を迎えた自身について「年齢に追いつかない」とも話していたが、同世代の自分も同じことを思うことが多々ある。
体力は落ち、白髪が生えてきても、精神的には成長できていないような気がしてしまう。

だからこそ、自分には館長の言葉がとても響いたし、貴樹もきっとそうだと思った。
この言葉によって、貴樹の止まっていた時計が動き出し、少しずつ歩き出したような気がした。

暗闇を彷徨っていると進んでいるのか、停滞しているのか分からず不安になる。
宮崎あおいが演じる貴樹の高校時代の教師・輿水も「止まると死ぬと思っていた」などと同じようなことを話していた。

近くで見ると止まっているように見えても、離れて見ると進んでいるはずだ。速さは人それぞれ。無駄なことなんてない。
その瞬間は無駄だと思えることも、結果として何かの糧になることもあるはずだ。
焦ることはないと言ってくれているようだった。


思い出は日常になる


輿水先生が明里に勧めた映画について話すシーンも印象的だった。

劇中の先生も「細かな内容は覚えていないが、映画館の雰囲気やその作品のことを思い出して泣きそうになる」といったことを話していた。

実際に自分もこのセリフは曖昧に記憶しているが、印象には残っている。時間が経てば記憶は曖昧になるし、いつかは忘れてしまう。

貴樹も明里も劇中で再会することはないが、二人が過ごした時間は確かにあった。
その事実は消えないし、その時に得たものは「日常」に馴染んでいくはずだ。

自分も30才を過ぎ「青春」はますます遠いものになった。
あの時、仲良かった友人と頻繁に会うことはない。
それでもその時の経験が確実にいまの僕を作っている。

飛んで行ってしまった貴樹の手紙も、明里が渡せなかった天文手帳も存在したことに意味がある。

*ちなみに先生がすすめた映画『月とキャベツ』は山崎まさよし主演で『One more time, One more chance』が主題歌だった。



それぞれの軌道


物語の終盤、貴樹が解説するプラネタリウムを明里が鑑賞するシーンも印象的だった。
劇中、貴樹と明里は再会しないが、輿水や小川館長を通じたり、このプラネタリウムを通して間接的に再会している。

今は会えない友人、あのころの恋、楽しかった記憶――離れているから美しく見えてしまっているものもあるかもしれない。
それぞれがそれぞれの軌道に乗り、人生を送っていると思うと、いまは会えなかったり、過去に戻れなくても、どこか前向きに生きられるような気がした。

明里は貴樹との約束は忘れていないが、貴樹が「前を向いている」と信じているから、貴樹にも忘れていて欲しいと話す。
だからこそ、貴樹と明里は再会しなくて良かったのかもしれない。

その一方で、今、会える人に想いを伝える重要性も描かれていた。
物語のラスト、水野に好きなところを伝えた貴樹を見て、彼なりに暗闇から抜け出す道を見つけたように感じられ、思わず泣いてしまった。

そんな貴樹の姿は僕にとって光であり、希望だ。


僕たちはどこに向かうのか


物語の序盤から科学館に展示されていたり、出会った頃の二人の会話からも「ボイジャー」が重要なモチーフとして登場する。
(序盤に流れたBUMP OF CHICKENにも「ボイジャー」について歌われた楽曲がある)

ボイジャーは1号、2号ともに地球から遥か離れた場所を飛行中で、二度と地球に戻ることはない孤独な旅を続けている。
貴樹と明里も、僕たちもそれぞれの軌道を描き人生を送っており、今後も巡り合うことはないかもしれない。
それでも、二人が出会い、同じ時間を過ごしたことに意味を見出せるはずだ。

時間は過去には戻らず、僕たちがどこに向かうかは分からない。
そんなことを思うと不安にもなるが、誰もが孤独な旅を続けていると思うと、孤独だけどひとりじゃないとも思える。

僕たちはきっと大丈夫――そんな希望を持たせてくれた作品だった。



*追記:今夏公開された『星つなぎのエリオ』でも「ボイジャー」が登場し、今作と共通する箇所もあるように感じた。
もし、そちらもご覧になった方がいたら、こちらのnoteもどうぞ。


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