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幻の艦上戦闘機「烈風」【堀越二郎の挑戦その6】

「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎が手がけた飛行機の中で、最後に登場する戦闘機が幻の艦上戦闘機 烈風(れっぷう)A7Mです。
 零戦の正当な後継機として三菱により試作されましたが、戦局の悪化により、当初の艦上戦闘機から局地戦闘機への役割変更を余儀なくされました。


1. 零戦の後継機として

 1942年(昭和17年)4月、海軍は零戦の後継として十七試艦上戦闘機の開発を三菱に内示します。太平洋戦争はこの年の12月です。新型機が出てすぐに次の手を打つのはどこの国でも同じこと。
 烈風に課された性能要求は極めて厳しく、零戦を100km/h以上上回る639km/hの最高速度、翼面荷重130kg/m²を維持した上で、零戦以上の航続距離、重武装、防弾装備まで求められました。
 海軍は引き続き空戦性能を重視し、烈風の設計に際してもエンジン馬力や翼面荷重といった具体的な設計数値まで三菱重工業に細かく指示し、これを撤回しようとはしませんでした。
 つまり、発注者が受注者であるメーカーの技術的裁量に深く立ち入ってしまい、設計の自由度が著しく制限されたのです。本来、発注者は技術的な要件を示すだけで、設計そのものはメーカーに委ねるのが原則、これが堀越たちを苦しめることに。
 空戦性能・最大速力・航続力は三つ巴のトレードオフ関係にあり、いずれかを重視すれば他の性能が低下する難しいバランスを迫られます。烈風の開発過程でも、堀越はこれらを両立させるため苦心を重ねることになりす。

 戦争も始まっていない段階で格闘性能を求めるのは無理からぬことではあります。この要求を満たすためには、烈風は試作段階で全長11m、全幅14m、全備重量4,400kgとすでに巨大化してしまいました。これはF6Fヘルキャットよりも大きいです。
 「まるで艦爆のようだ」とは海軍の声。サイズ的には天山艦攻並の大きさです。零戦より約2,000kg重く、従来の運用思想に基づく格闘戦闘機としての俊敏性を確保するには、無理を承知の設計でした。

零戦と烈風の大きさ比較 操縦席に合わすと巨大です

 ライバルとなる予定だったF8Fの開発コンセプトが「小さい機体に大馬力のエンジン」という、現代でも通じる王道の設計なんですが、その真逆を行ってしまったのは格闘性能の要求に応えるためでしょう。

2. エンジン問題に翻弄される

 当時、三菱製のハ43エンジン(2,200馬力級)は開発中で、十分な出力が期待されていました。しかし海軍は生産効率の観点から、中島製の誉(ハ45)2,000馬力を強要します。
 この誉エンジンは紫電、紫電改、流星、彩雲、疾風にも用いられており、品質や稼働率の低下が現場で問題となっていました。
 そのため昭和19年4月に完成した試作1号機「試製烈風」は、馬力不足で最高速度550km/h、6,000mまでの上昇時間約10分と、零戦52型にも及ばない性能になり、関係者を落胆させます。
 戦局の悪化もあり、海軍は紫電改を中心生産に切り替え、烈風の開発は一時見切りとなります。

ファインモールド製品の試製烈風

3. 堀越の執念と改良

 堀越二郎は自身の設計に絶対の自信を持ち、諦めませんでした。独自にハ43エンジンへの換装を進め、半年後にテスト飛行を実施します。
 その結果、最高速度628km/h、6,000mまでの上昇時間6分7秒と、海軍の全要求をほぼ満たす性能を獲得しました。
 この改良版に軍は大いに喜び、「烈風11型」として昭和20年6月(終戦の2ヶ月前)に制式採用されましたが、時すでに遅しです。わずか試作機8機しか完成せず、実戦で使用されることはありませんでした。

烈風の完成された姿 やはりデカい・・・。

4. 雷電との共通点〜選定エンジンに泣かされる

 烈風の苦難は、雷電とよく似ています。雷電も火星エンジンの導入に苦労し、冷却不良や重量増による性能低下に悩まされました。烈風もまた、計画されたハ43が使えない期間は、巨体に対して馬力不足のエンジンを搭載せざるを得ず、性能の真価を発揮できませんでした。
 どちらの機体も設計者の理想は高く、実戦投入にはエンジン性能という「現実の壁」に阻まれたのです。いえ、遡ると九六式艦戦から悩まされていたかもしれません。 

三菱のハ43エンジン

5. 格闘性能へのこだわりと思想的限界

 烈風は零戦譲りの旋回性能にこだわり、巨体化しても格闘戦を重視しました。しかし戦争の実情は、速度と重武装を軸とする一撃離脱戦法が主流で、旋回戦にこだわる日本的美学は時代にそぐわなくなっていました。

 そもそも格闘性能は、訓練を十分に積んで練度の技量の高いパイロットあってのこと。この時代は、相次ぐ敗戦と消耗戦により、搭乗員も練度不足で格闘戦も十分に挑むこともできなかったと思われます。

一撃離脱戦の方が格闘戦よりも訓練時間が少なくなります。

6. 烈風の教訓

 烈風は、試作8機に終わり、実戦の舞台には立てませんでした。堀越の情熱は尊いものですが、旧来の思想や戦局の現実に阻まれた結果でもあります。軍の要求に応えようとするあまり悲劇的な結果になったのではないかと思います。
 堀越二郎の戦闘機開発の挑戦はこの烈風をもって終了となります。約14年間の開発の日々、堀越二郎42歳の夏のことでした。

 烈風の物語は、技術的な理想と現実のギャップ、そして変化に対応する判断力の重要性を教えてくれます。零戦から烈風への設計の歩みは、航空史のみならず、時代の変化を読む力の大切さを私たちに示していると思います。

終戦後の烈風3号機

 対する米軍ですが、海軍のF8Fがすでに空母に積まれて向かっており、フィリピンの部隊ではジェット戦闘機のF−80シューティングスターが到着しておりました。
 烈風が量産されたとして、戦局を覆すのは無理だったでしょう。

こちらの記事が詳しく書かれており、参考になりました。ありがとうございます(^^)。


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