渡辺温が舞台の演出をするという話。(新青年昭和4年3月号より)
渡辺温演出舞台の話
新青年昭和4年3月号の「わ゙にてい・ふえいあ」内でこんな記事を見付けた。

なんと。渡辺温が舞台の演出をするという話である。改めて情報を整理してみよう。
日本築地小劇場にて
演目:エドガーアランポー原作「赤き死の仮面」
演出:和田精、渡辺温
出演:日本交響楽団、岩村舞踊団
という話らしい。
長谷川修二か中村進治郎か問題
「わ゙にてい・ふえいあ」の担当者は中村進治郎か長谷川修二だと考えられて居るが、僕は此の回に関しては長谷川修二ではないかと考えて居る。
その理由は記事の内容が、ハリウッド映画の話、公開されたばかり映画「アッシャー家の崩壊」の話、また冒頭からオスカーワイルドがしていたファッションの話など。長谷川修二が好みそうな話題と重なっている。
中村進治郎と長谷川修二の記事を昭和6年と8年の分を比べると、中村進治郎は「今」を語って居る印象だった。今此の瞬間の流行を見詰めて居る、時代の中で自由に泳いだ青年らしさを感じた。
一方長谷川修二はお洒落や服飾を歴史から語る所が在る。遙か遠い古代ローマなどからの引用も用いながら、十年ほど前のお洒落な先輩たち(谷崎潤一郎など)に敬意を表して現在の流行の事を考える、文脈や流れを大切にして、またそれを語る事が迚も大好き!という感じがする。(知識をひけらかすのではなく、本当に好きで溜まらない人の筆致)
故にオスカーワイルドの引用なども長谷川修二らしく、僕は感じた。
公演情報を探してみた
渡辺温の此の情報は年表にはなかった。此の件、僕は寡聞にして知らないが一体どうなっていたのだろうか。
先ずは「和田精」の仕事としてGoogle検索をしてみたが見付からない。
次に「岩村舞踊団」を検索したが、そもそも情報が少ない。
築地小劇場がポーの「赤き死の仮面」という公演をしたかどうかを調べたが、これも出なかった。
同じような言葉で国会図書館デジタルコレクションで検索したが、殆ど同じような結果で全く情報がなかった。恐らく企画倒れした物ではないだろうかと思われる。
検索したうち、唯一此の情報に繋がりそうな記事を見付けた。

水品春樹 著『築地小劇場史』,日日書房,昭和6. https://dl.ndl.go.jp/pid/1175696 (参照 2025-12-20)
昭和3年7月頃の、築地小劇場にてシェイクスピアの「眞夏の夜の夢」を國民新交響楽団や岩村舞踊団の援助を得て帝劇で公演をしたという話。
交響楽団と岩村舞踊団を招いた舞台という事で、温と和田精演出の「赤き死の仮面」に近い構成だ。岩村舞踊団で検索して見付けた内容なので、恐らく岩村舞踊団と築地小劇場がの最初の関わりが此の昭和3年の公演ではないかと思われる。
此の時の公演があり、翌年昭和4年3月号(原稿を書いたのは1月中だと思われる)頃に、「赤き死の仮面」の企画が持ち上がったのではないだろうか。
昭和4年1月という時期について
築地小劇場の創設者、小山内薫は昭和3年12月25日に逝去して居る。つまり、小山内薫が亡くなったばかりで築地小劇場の劇団は非常に不安定な時期ではないかと思われる。築地小劇場が分裂したのはその3、4ヵ月後の3月25日とのこと。(※参照:Wikipediaの情報より)
渡辺温は新青年を辞めていて、フリーの作家をしている時期で鎌倉で内縁の妻・マリと共に横溝一家の隣に住んで居る頃。横溝の父が亡くなって、葬式で温が横溝にモーニングを貸したのも此の時期だっただろうか。またハッキリとは解らないが、鎌倉時代は中村進治郎が渡辺温のところに押しかけて住んで居た事があるとの事で、彼も近くに居たかもしれない。
兎も角、温は前年の7月頃から専業作家として新しい人生を歩み始て4、5ヵ月程經った時期だ。長篇が書けない事もあり収入が不安定で凄く貧乏だったと云う事を、横溝正史が惜春賦で書いて居る。
此の「赤き死の仮面」を演出する話は、そういう時期に持ち上がって居る。
詰まり、渡辺温は仕事がなく不安定な状況で、築地小劇場は小山内薫の死去混乱している状況という事だ。
渡辺温と和田精の縁
二人の縁は大正13年頃から始まるのではないかと思われる。
年表によると渡辺温が及川道子の父の店「オアシス」に頻繁に出入りするようになったのが大正13年11月頃「影」が入選した時期だと言う。オアシスには辻潤や築地小劇場関係者、ファンなどが出入りしていたそうで、この近所に住んでいた和田精も常連だったということ。(※映画が若かった時 明治・大正・昭和 三代の記憶/岩崎 昶 より)
築地小劇場に通っていた温なら、オアシス以前にも和田精とは顔見知りだったかもしれないが、オアシスでよく顔を合わせているうちに親交が深まった可能性が高いのではないだろうか。
また大正14年11月には和田精と共に露西亜の少女舞踏家の公演に尽力したと云う事。(※年表より)
以上の事から、遺されている資料以上に和田精と渡辺温はかなり親密な関係だったのではないかと思われる。新青年に渡辺温が入った頃から和田精は新青年への寄稿を初めて居る。此れも温の人脈だろう。
渡辺温と演出の話
この公演内容を見ると、紛れもなくプロフェッショナルな内容だ。改めて振り返ると…(スクロールで戻るのは面倒でしょう?)
日本築地小劇場にて
演目:ポー原作「赤き死の仮面」
演出:和田精、渡辺温
出演:日本交響楽団、岩村舞踊団
という事で、演出の温を除けば全員がプロ中のプロ。温はシナリオを幾つか書いており、シナリオライターとしてはプロだろうが、演出は未経験の筈。
かなり大きな規模の仕事を温に任せる話が持ち上がる程度には、演出の腕を認められ居たということではないだろうか。少なくとも、和田精のお眼鏡にはかなったという事だろう。
映画監督をやってみたかった温
渡辺温は「映画監督をやってみたい」と兄・啓助に話していたらしいが(啓助のエッセイより)、実際は映像作品を作ること無く人生を閉じた。だから彼の映像作家としての具体的な技術を知る事は出来ないが、此のエピソードのお陰で或る程度は何か技術的な力を持って居たのかもしれない、と云う事を知る事が出来た。
及川道子の「よき指導者」
温の恋人で女優である及川道子は、自伝のいばらの道で温の事を「よき指導者」とも書いて居る。また及川道子の映画デビュー作について、演技のアドバイス(とはいえ、気にせずのびのびやりなさいなど、柔らかい内容)を手紙で送っており及川道子の演技について、多少何かアドバイスをして居た事は窺い知れた。
僕は「文筆専門の温が何か演技の役に立つ指導をすることは出来るのだろうか?」と道子の「よき指導者」の具体的な内容が想像出来なかったのだが、和田精と共に岩村舞踊団を率いた演出をする話が上がると云う事は、プロとして通用出來るような演技の勘があったのだろうと思った。
実現しなかった事
この公演が実現しなかったと思われる理由は、築地小劇場が不安定な状況だったと云う事と、そもそもフライング情報だったのではないかと僕は考えて居る。
フライング記事の可能性
僕は此の記事を書いた人物を、長谷川修二だと考えて居るが、長谷川修二は渡辺温の親友。そして此の記事が書かれたのは1月のうち。
お正月休みで久し振りに会った修二に温が「今度、こんな企画が持ち上がっている。樂しみだ!」などと話したのを、ほぼ確定だと思いこんな記事にしたのではないだろうか。此の頃の修二は神戸に住んで居る筈なので、正月休みで東京に帰省した時にでも話したのでは? と僕は勝手に想像をする。
和田精が或る程度オファーを出してまとまり掛けた企画だったのか、そもそもが和田と温が「7月に築地小劇場に來て貰った岩村舞踊団と交響楽団がすごくよかったから、彼らを呼んで二人でポー作品の舞台をやりたいねえ」と盛り上がった程度の話を確定だと思って出してしまったのか。
もし此の記事の書き手が、修二ではなく中村進治郎だったとしても温とは距離が近い所に居るので彼が聞いて書いた可能性もあるけれど。
記事の執筆者が長谷川修二ならば、この記事は仕事が少なく貧乏だった親友・温を応援するつもりで書いたのではないかな、と僕は考える。
また、此の時期は温が新青年の編集には携わっていないから原稿のチェックは出来ない。鎌倉に居るため編集部に気軽に遊びに行く距離ではないように思う。(とはいえ鎌倉時代でも温は都内で遊んでいたらしいので、なんとも云えないところだけど)
温がもし編集部に居たら「此の情報は未確定だから、出さないで」と差し戻しも出来ただろうが、温が編集部に居ない時だからこそ出た記事とも云えるのではないだろうか。
まとめ
たった数行の記事で長々と書いてしまいましたが、僕がこの記事から読み取ったことを纏めます。
渡辺温がプロ(和田精)も認める演出の腕が少なからずあったということ。
和田精と渡辺温は仲良し
渡辺温のフリー作家時代は色んな仕事にチャレンジしようとしていた可能性がある。
そんな所です。
お付き合いいただきありがとうございました。
≡了≡
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