宮田新八郎に就いての調査
まえがき
渡辺温と横溝正史を引き合わせた事でお馴染み「宮田新八郎」。彼は慶應大学で渡辺温(と長谷川修二)の同級生で、その後は新聞記者などをつとめた人だ。作家では無いため、没年などの詳しい情報が分からず困って居たのだが、この度漸く判明した。国会図書館デジタルコレクションのお陰である。ありがたや。
一番大切な所はXにポストしたが、流れて行ってしまうので、僕は自分のために宮田に就いての情報を或る程度纏めておこうと思う。
宮田新八郎に就いてどのくらいの人が興味を持っているかは解らないが、渡辺温の人生に於いてキーパーソンであることは間違いない。
宮田新八郎の略歴
1904年頃 岩手県南部生まれ。盛岡一中、慶應大学卒
大正11年頃 慶應大学で渡辺温、長谷川修二と同窓生。交流は無いが瀬下耽も同時期の慶應大生。
大正15年 横溝正史と下宿先で知り合う。横溝の依頼に応じ、渡辺温を紹介する。
昭和初年 朝日新聞出版局「アサヒグラフ」編集者
昭和4〜5年頃 大阪で新聞社勤務
昭和8年2月 朝日新聞社アサヒグラフ担当 山本周五郎に短編を依頼した関係で知り合い、晩年まで交友が続く。
太平洋戦争中 関西に移住
昭和20年 敗戰と共に東京に戻る。
昭和27年 『慶大生活』を現代思潮社より出版
昭和37年頃 文芸系の同人雜誌「宴」に入会する。新聞社を定年退職したら、好きな文学を書きたいと話して居たという事。
地方の三味線に合わせ、枯木のように痩せた宮田は「未練で云うのじゃないけれど、鳥も枯れ木に二度とまる……」と唄いながら、おどけた手振りで踊って床柱にしがみつき、笑いをふりまいたりした。謹厳紳士の宮田にはついぞ無いことである。〝鳥〟は宮田、〝枯れ木〟は己の中に燻りつづけている〝文学〟との寓意を、かれはこの俗曲に託したのかもしれなかった。
昭和45年5月末 胃がんのため鎌倉の佐藤病院で長逝。葬式は東逗子駅前の海宝院。5月28日か29日頃だと思われる。(山本周五郎が27日に亡くなった大池唯雄の葬式に宮城県まで行き、とんぼ帰りで宮田の葬式に出席したということ)享年66歳くらいだと思われる。
渡辺温との縁
渡辺温の華やかな昭和の幕開けの鍵を持っていたのが宮田新八郎だった。宮田がいなければ、温は新青年へ入り横溝と共に時代を作る事は無かったかもしれない。
また、温が事故死した際に真っ先に駆けつけることが出来たのが、当時大阪の新聞社勤務だった宮田で、宮田は温の親戚の殿村と共に温の通夜をした人物だ。温の人生の始まりと終わりに関わった人だと言える。
その他
宮田は新聞記者、アサヒグラフの編集者でありながら作家らとの親交が多かったようで色々な場所でその名を見掛ける。今回上げた山本周五郎、横溝正史以外にも戸田達雄の回想録にも名前があり、その頃の作家やメディア関係者には名を知られた存在だったようだった。
参照元
木村久邇典 著『山本周五郎 : 馬込時代』,福武書店,1990.6. https://dl.ndl.go.jp/pid/13499334 (参照 2025-12-23)
木村久邇典 著『山本周五郎の最初の母校』,小峯書店,1981.6. https://dl.ndl.go.jp/pid/12500794 (参照 2025-12-23)
木村久邇典 著『山本周五郎 : 横浜時代』福武書店,1985.11.
横溝正史 惜春賦
清水俊二 映画字幕五十年(早川書房)
※著作権切れは2040年。
≡了≡
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