渡辺温が描く物語、創作に就いて
渡辺温の人生に現れた名詞や固有名詞の背景を知る毎に、渡辺温作品への解像度が上がる。
温自身の生活、趣味嗜好、それからその時、街や世の中にあった物、直接の言及はないけれど必ず渡辺温が目にしたであろうもの。そういった物を知るにつれ、温の作品というのは彼の人生の上に現れた人、物、出来事をぽん、ぽんと拾って集めて、それらを再構築して自分の心象風景に合った物語を作る、という物だと感じるようになった。
また、温の生活や彼自身、その当時の社会、温が身を置いたその頃の東京の街や遊びに行った大阪、実家の日立など。それらを出来るだけ温の眼球に映った儘、捉え(ようとす)ると、現代の僕らが考える意味や、今日の価値觀で意味する物と別の意味が浮かび上がって來たりもする。
此の代表的な例は、可哀相な姉の「髭」では無いかと思われる。作品のみを讀めば髭は「大人の象徴」であるけれど、當時のモダンボーイは髭が御法度だった事、温自身がモダンボーイで、友人にはモダンボーイの頂点・長谷川修二と中村進治郎が居たこと、モダンボーイへ向けた雑誌・新青年に発表された作品で在る事を考えると、「大人の象徴」である以上に「無粋なもの」そして温が忌み嫌っただろう「古くさいもの」「お祖父さんやお父さんの価値觀」と言う讀者への目配せも含まれている筈だと僕は考える。
そういう譯で僕は、渡辺温作品は固有名詞(新宿中村屋、武蔵野館などの)以外の名詞にも、温個人にとって意味のある物が少なからず紛れて居ると思って居る。
僕が渡辺温の作品を「半分は私小説」と感じる理由は此處にある。
また此れら温の身の回りにある物を使って構築された物語の、行間や単語と単語の間から滲み出る物には、どうしても温が生きて居た中で湧き上がった感情が含まれており、それらが作品を彩っているように感じる。それ故に僕は、渡辺温作品を詩のようにも感じている。
と、言うのは最初から考えて居たことではなく、かれこれもう30年以上渡辺温を偏愛する中で、どうして僕は此樣に何度讀んでも新鮮に胸が熱くなるのだろう? と自分の心を省みた結果、「僕は詩のように樂しんで居る」と結論付けた。
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此れは僕自身の創作の方法と全く同じであった。無意識で全く無自覚だったけど。
僕は渡辺温のことは作品・本人共に偏愛してやまないが、「あんな作品が描きたい」と思ったことはなく一度も真似をしたことがない。
僕が憧れて真似をしたのは夢野久作と筒井康隆だけだ。それも小・中学生の頃に。
僕と渡辺温には共通点が多いので、こういうタイプの人間がやりがちな創作方法という事なのかもしれない。
他の人がどういった風に物語を創作しているかは、餘り知らないけれどシナリオ論の本を読んだり、創作論めいたものをSNSで眺めるに、僕と温のような作り方は現代では主流ではないように思う。
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故に僕は、似たような方法で創作をしている上に、長年命を削って小説を書いていた僕にしか見えない渡辺温作品の側面というものが在ると信じて居る。
それにもし同じような創作方法をする人が居たとしても、その人が渡辺温を好きになる可能性、時間を割いて温の研究や批評、論考をするかというとその可能性は高くは無いだろう。
僕は僕のような人間は此の先現れない気がしてるので、こういうのは自分にしか出来ない事だと思って、出来るだけ渡辺温作品に就いて色々書き殘して置きたいと思う。
=了=
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