鎌倉の濱にて−轉生戀慕現象−
鎌倉の濱にて
昭和4年の僕は、鎌倉の濱で「今も君を愛して居ます」と彼女の耳元に小さな聲で囁いた。彼女はもう三つ編みでも和服でもなく華やかな洋装だった。唇にも紅を引いていた。
此の時の夢が本當なら、僕は死ぬ前に彼女に自分の氣持ちを傅えられて居たと言う事だ。少し安堵する。ただ僕は此の時、別の人と結婚して居たのだから非常に良くないことをして居るのだけど。
オアシスを閲覧して來た時のこと。
及川道子のファン雑誌「オアシス」を八冊ほど閲覧して以來、前の人生への彼女への感情が新鮮に湧き上がり、どうにも上手く言葉で纏められなくて何か悶々として居る。
僕の前世が渡辺温なら、愛した戀人というのは及川道子の事になるけれど、僕が渡辺温じゃなかったとしても、尠くとも僕が深く愛した人は及川道子に何もかもそっくりな女の子と云う事になる。そういう譯で僕は及川道子に觸れると非常に感傷的になって仕舞う。
此れまでのあらすじはこちら↓
渡辺温が「霧島クララ」として書いた及川道子評に目を通した時、途中で泣き崩れそうな程の感情が溢れて暫く讀み進められなかった。何度讀み返しても切なくて堪らなくなる。
オアシス誌で讀んだ及川道子による日記で、彼女の人となりを知れば知る程、微笑ましくて愛おしくなり、ひたすらに健気で自信がない姿を見ると僕は泣き出しそうになる。そうして気が附くと心の中で「道子、道子おいで、こっちおいでよ、抱きしめてあげるから」と呼びかけて仕舞う。我ながら何て圖々しいファンだろう、道子嬢だって俺に抱かれても嬉しくないだろうに、と思いながらも。
「こっちおいで」だの「抱きしめてあげる」だの僕の中に居た隠れた自分は、彼女の支えになれるという自信に滿ち溢れて居る。僕の中の知らない僕はどうやら、僕が抱き締める事が彼女にとって大きな支えになると信じて疑って居ないらしかった。
「愛させてくれてありがとう」
彼女の事を思い出して第一に込み上げたのは「愛させてくれてありがとう」「守らせてくれてありがとう」「かっこつけさせてくれてありがとう」だった。
「抱き締めてあげる」と僕は言って居るけど眞實は「『抱き締めてあげる』をさせていただく」と言う氣持ちだ。
「彼女の為にそうして居る」のではなく、僕なりの愛情表現を受け止めてもらってる事が何よりありがたく感じて居た。それは彼女の器の大きさと優しさのお陰だと理解って居た。
僕が「守る」だの「抱きしめてあげる」だのしなくたって、彼女は充分に一人で生きていける立派な人間だと僕は知って居たから。
「人を褒めるのが好き」という性癖
「人を褒めるのが好き」と言う趣味が僕にはある。それはお世辞を言う譯じゃなくて、本心からいいなあと思った事を其の儘相手に熱心に傅えると言う事だ。
それからもう少し言えば、僕は落ち込んで居たり自信がない女の子を励まして、しっかりと自信を付けて貰ってその後に戀愛を進めたがる癖がある。此れは最近自覺した事だ。
AIチャットを利用した戀愛ADG内の「自己肯定感の低い女の子の弱みにつけ込んで好きに弄ぶ」という類いのシナリオを全部「その子の劣等感をフォローして、安心感を与え才能を見付けて未来の可能性を提示する」という流れにしてぶち壊しにしてばかりで、何人ものAIキャラの女の子達を笑顔にした。そうして、その女の子たちが明るく立ち直った處で僕は初めて「じゃあキスしていい?」と戀愛パートに踏み込んでいった。
此の事で改めて「女の子を誉めて励ますのが趣味」と言うのは僕の性癖なのだと悟った。
落ち込んでた子を立ち直らせたという達成感
自分が好きな子の役に立てたという喜び
役に立てたことでその子の人生の一片になれた(かもしれない)という嬉しさ
依存心や打算など必要無い状態の女の子に選ばれるという誇らしさ
詰まりこういう要素が僕を「女の子を誉めて励ますのが好き」と言う性癖にして居た。
此れらは総て僕が彼女に對して行って居た事だった。
僕は何時も自信の無い彼女を澤山誉めて励まして居たらしかった。
彼女を励まして居たこと
最近思い出したのは、舞台に立つ時に緊張するという彼女に「君は本番にとても强い子」と僕は何度も言い聞かせて暗示を掛けるようにして居た、という事だった。否、實際道子さんは本番に强いし、非常に才能があって頑張り屋さんだから、暗示ではなく事實だったのだと思うけど。
だけど僕としては、万が一自信を無くして失敗することが在ってはいけないから、という気持ちでそう言い聞かせて居た。
映畫雑誌や自伝で見る及川道子は凜として居て芯が强く眞っ直ぐで、知性を感じる人で、寫眞は松竹の花形スターという感じでとても華々しい。だから自信が無い人にはとても見えなかったし、僕がそう励ます必要もないんじゃないかと思って居た。だから此の記憶や感覺には整合性が無いように思って居た。
けれど、オアシスに掲載されていた道子のエッセイや日記などを見ると、此の人は謙虚と言うよりも異常な程に自分に自信が無いのだ、と感じた。ああ、だから僕は此の子をずっと誉めて励まして居たんだと理解した。彼女の日記を讀んで居て「何を言ってるんだ、君は全然そんなことを思う必要はないのに」ともう一人の僕は言って居る。僕の中の渡辺温が。
昔から僕は「少女の健気さ」を感じると、涙腺崩壊状態になってしまっていた。古くは少女革命ウテナのOP曲だとか。カラオケで歌おうにも号泣してしまいそうで歌えない。~常磐ゆうさんの歌声~もやばい。bluenoの「8*30のテーク」や川本真琴さんの「月の缶」、それからプリキュアの曲は殆どみんな泣いてしまう。すぐに思い出せるものが音楽ばかりだが、兎も角「少女の健気さ」と云うものが僕の涙腺のツボだった。
昨年頃、子供に付き添って仕方なく見に行ったプリキュアの映畫では、當初「だりぃな〜」くらいの氣持ちだったのにオープニングからエンディング曲まで僕は殆どずっとだらだらと涙を流して見てしまった。少女達の健気さと精一杯さに胸が切なくて涙を禁じ得なかった。
此れはさすがに異常だ、と自分で思い鑑賞後に己の気持ちを掘り下げて考えてみると「もう頑張ってるんだから、そんなに頑張らなくていいんだよ。君はこれ以上頑張らなくていいんだ。君は自分がどんなに一生懸命やってるかを知らないんだ」という言葉が出て来た。
そこで僕は気が附いた。
ああ、此れ前の人生の戀人の事だ、と。プリキュアたちの姿が彼女に重なって僕は泣いて仕舞うんだと。確かに及川道子はどんな困難にも挫けず、まっすぐ努力を続け、正義感が强くて優しくて弱い者の味方、という感じの人だった。まさにプリキュアじゃないか。
此れまでの僕の「少女の健気さに弱い」というのは、前世の彼女と重なるからなんだと理解った。
謙虚すぎる彼女
オアシスに及川道子は此樣な日記を書いて居る。
十月二日
「女性文化」を讀んでゐると、自分と同じ年位の、または自分より年少の婦人達が、すでに偉い働きをしてゐたことのあるのを思ふて、いつまでも何も出來ない、そしてわからずやの自分を恥しくも思ふ。
こういう文章を讀むと、何を言ってるんだよ道ちゃん、君だって充分頑張ってるじゃないかと、自分の成果を認めなさいと説得したくなるし、それ以前に「本気でそんなこと言ってるの?」と聞きたくなる。(そして澤山讀むと、此れが謙虚ポーズなどではなく心の底からそう思って居るのだということが分かってくる)
ちなみに霧島クララの文章で僕が何度も慟哭しそうになるのは此の文章だ。
随分子供の時分から可なりよく知つてゐるけれども、何時迄たつても大人になれないやうな本當に弱々しい感じの少女だつた。
「何時迄たつても大人になれないやうな」という處は、僕は道子の内面の事を言って居るのだと直感的に思った。何處へ行っても素晴らしい人柄と言われている及川道子だけど、頑固な面があったり他にも子供っぽい面だってある。(年齢から考えれば當然のことだけど)そういった道子の大人になりきれない内面や、子供っぽいところも全部受け止めて愛して居る、という風に僕は感じた。文章をその儘に讀むのなら身体が弱くて痩せているとか、そういった話なのだと思う。……でも僕にはどうしても内面の事を言って居るように感じて仕舞う。
渡辺温による、デビューしたばかりの及川道子への評は何ひとつとしてダメ出しをして居ない。「こういう個性の子だから、こういう使い方をするといい」という話ばかり。
(↓ 全文はこちら)
努力が足りないと自分を責める道子自身とは違い、彼女に努力や改善が必要だとは書いて居らず「こういう役ならいいだろう」という話ばかりだ。
温は道子に對して「誉めて個性を伸ばす」という接し方をしていたのだろうと思った。
不壊の白珠(デビュー映畫)の道子へ宛てた感想も「思って居たよりよく出来ていた。もっとのびのびやるといい」というような内容だった。ダメ出しは無く、まず誉めて次に道子の個性を延ばすといいという話。
渡辺温による「不壊の白珠」の感想は僕もまったく以てその通りだと思った。道ちゃんが自然で素のような笑顔を見せてやっている時が、瑞々しくて何よりも可愛かった。デビュー作だからだろうと思うけれど、素を感じさせる飾らない表情がとても可愛かった。それが彼女の良さだし、他の女優さんには無い個性だという事が渡辺温も言いたかったんだと思う。
そして霧島クララの文章の、結びの言葉の切實さに僕は胸が詰まるような思いになる。
とに角、柄の役者として、もつとみとめてやつてほしい。
此の文章、もう少し器用に書けなかったのかい、とも思うが此の不器用さに切實な思いが現れて居るように感じて、僕には切なさが募る。
デビューしたばかりの道子が映畫界で成功出來るようにと、渡辺温が保護者のように頭を下げて居る姿が見えるようだった。
そして此れが道子に關する事の遺言のようになってしまった事を思うと……彼女への愛情が未だ大きく存在した儘、温は突然に死んで仕舞ったのだなあと思う。
此の點、マリとの關係が事實婚の未入籍だった事が未だ救いのように感じる。マリちゃんには辛い思いをさせたと思うし本当に申し譯ないけれど、未入籍な分まだお互いに迷いや訂正が許される關係だと思われるから。
渡辺温と及川道子の關係
温の道子への接し方は、「個性を伸ばして、誉めて励ます」という物だった。過去の僕の感覺、それから現在の僕が子供や惱んで居る友達への接し方と同じだ。
彼女の居ない世界で、僕は彼女へ掛けるべき愛情を持て餘し、誰彼構わず誉めて励ましてしまう。そういう處がある。嫌がる人も居るので気をつけなくちゃあなと思うけど。占い師の仕事は僕のこういった性癖を存分に生かすことが出來たと云う意味では、相性が良かった。
×
及川道子と渡辺温の關係は、公に知られていたらしく、温の死後、昭和5年の春に、恐らく第三者と思われる人が「温を失った道子の心情」と思える詩を書いている。(※国会図書館デジタルコレクションに在り)また昭和6年のゴシップ誌に、記者が及川道子と渡辺温の戀愛の話を書いている。(※これは本當と憶測が半々だと思われる内容。その内出します)
そして昭和9年のオアシスの渡辺温追悼号では、道子は二人が戀愛關係にあったことも、今も好きだと言うことも隠す気がないように感じる。又、温の友人が、温が道子に特別な感情を持っていたと書いて居るし、本當にみんな二人の關係を隠す気はないようだった。
當初僕は、妻(未亡人)が居るのに、女優である元カノがそんなことを云って居たら妻はキツいんじゃないのかなと思って居た。それ故に道子の態度は不躾ではないか? という見方をして居た。然しマリちゃんはその後、再婚したと言う事が分かったので、それで道子自身は公言しても構わないと判断したのかな、とも思った。
けれどももう一つ、此の記事の冒頭に書いた樣に、もしも昭和4年のあのと時に「それでも今も愛して居ます」と言われて居たのだとすれば。
死んで会えなくなった後も、愛し合っている仲なのだと自信を持って居られるだろうなあと……僕は此處で辻褄が合うことを勝手に感じて居ます。
兎も角、オアシスを讀み、霧島クララの文章を讀み、僕の情緒はまとまりがつかない程に亂れた。
道ちゃんの總てが可愛くて愛おしかった。紅雀の人形を喜んで居るところ、お花が好きなところ、お節介な人に苛々するところ、怒りっぽい自分に反省しているところ、子供たちが好きで教会でお話することが何ヶ月も前から楽しみだったところ、勉强のために歌舞伎を見に行って色々と考えて居るところ、小さい子が讀むような物語が好きなところ、その他色々、なんでも、総て。それは僕の知っている彼女のようで、微笑ましいなあと思って讀んで居るうちに、僕は彼女の總てが好きだったなあと言う事を思い出して、懐かしさなのか切なさなのか分からない此の感情を酷く持て餘して仕舞うのです。
=了=
いいなと思ったら応援しよう!
渡辺温や1920年代関連の研究に使わせていただきます。少しでもご支援いただければ幸いです。