長谷川修二とバー・サイセリアについて
7月27日は長谷川修二の誕生日ということで、今年も彼が書いた文章の一つをデータに起こして公開したいと思います。
サイセリアについて
バー・サイセリアは昭和2年頃、銀座にオープンした昭和初期のバーである。渡辺温を始め、横溝正史や水谷準、中村進治郎、城昌幸等、新青年周辺の人達やその他文化人が出入りして居たということ。渡辺温が結婚(内縁関係)した山田まりはこのサイセリアで働く女の子だった。そんなサイセリアについての文章を長谷川修二が書いて居るので、今日はそちらをデータ起こしして公開します。
マイクロフォン 新青年昭和3年2月号より
◇ 長谷川修二
Two is company, three is crowd.つて事を知つてるかね、君。You know d —n well, huh? Alright, 結構だ。
「新青年」正月號、甲賀三郎つて人と水谷準つて人(人つて書いて惡いか。)がサイセリヤ・バーの事を書いてらあ。サイセリヤ・バー、サイセリヤ・バーか。馬鹿。
澁谷にあつて、名前も、CHIGUSAと云つて居た頃、親父さんの渡邊君がコーヒーをひいて呉れる時、ミシンの振動が輕く部屋中に傅はつた。床の上、四尺位の所に、莨の煙が棚引いてゐる。輪を吹くと、花輪のやうに、何時までも動かずに、空間に掛つてゐる。
右記二人の人のを面白く讀んだ理由——つてのも變だな。
Two is company, three is crowd.少し醉つてる。失敬。
英語について
※Two is company, three is crowd. とは、英語の諺で二人なら仲良し、三人だと仲間割れ、というような意味だという事。
※You know d —n well, huh? Alright, よくわかってるじゃないか、よし。というような意味(Google翻訳より)
新青年誌面の構成について
これは四行目までが157頁の掲載で、それ以降が133頁の掲載となっている。続きを読むために20頁以上前に戻るという変則的な構成だった。
ちなみに長谷川修二の次には水谷準のマイクロフォンが掲載されており、この二人だけが133頁に飛ばされている。この頃の編集は、横溝正史と渡辺温で、長谷川修二・水谷準共に二人とは親友レベルの友人だ。友人であるが故に発揮した遊び心だったのかもしれない。
サイセリアと長谷川修二について
長谷川修二は大正15年12月から仕事の都合で関西(大阪や神戸等、何度か引っ越したそう)に住んでいる。それ故にこの文章を書いて居る時は関西に住んで居る。サイセリアには自分の友人・渡辺温、横溝正史、それから中学時代からの友人の岩崎昶も常連だったと言う事で、自分も行きたいけど行けないもどかしさがあったのではないかな、と僕は想像する。
この文章によると、修二はサイセリアを前身から知って居るということなので、一層歯がゆく悔しく東京のみんなが羨ましかったのではないだろうか。彼が新青年に発表した私小説めいた掌編を読むと、道頓堀のカフェなどを楽しんでいた雰囲気は感じられるが、今一つしっくりきて無さそうな事も感じられる。
それ故にサイセリアに恋い焦がれ、出た言葉が「サイセリヤ・バーか。馬鹿。」なのではないだろうか。
サイセリアの表記揺れについて
バーサイセリアは「サイセリア」の表記が大半だが、今回長谷川修二は「サイセリヤ」と書いてある。色々な文献を当たっているうちに「ア」と「ヤ」が混在して居る状況が見受けられる。
因みに水谷準は「サイセリア」と書いて居たが、店のマッチは「サイセリヤ」表記である。
此の件については改めて追いかけてみたいと思っています。
水谷準と長谷川修二
長谷川修二と渡辺温は大学時代からの親友で、長谷川修二と横溝正史は横溝が晩年まで友人だと名を上げるほどに仲良し。
また、温・横溝・水谷の3人は毎晩飲み歩くほどの仲良しだった。
しかし、修二と水谷に交友関係があったかどうかは全く解らなかった。仲良くなっていてもおかしくない関係ではあるが、気が合わなかった可能性も無くは無い。
昭和4年の新青年で、恐らく水谷準がセーラーパンツを讃える歌の楽譜を掲載した一方で、同時期のばにちい・ふえいあではセーラーパンツに対する否定的な意見が掲載される。(ばにちい・ふえいあは、僕の見立てでは長谷川修二と中村進治郎が交代で書いて居る)こんな事があったこともあり、修二と水谷の気が合わなかった可能性も思ったが、昭和3年2月号掲載のこのマイクロフォンを見る限り、修二は水谷に多少なりとも親しみを持っているのではないかなと僕は感じた。
サイセリアの前身「CHIGUSA」について
サイセリア自体は新青年周りを調べて居ると行き着く名前で、割に有名だと思うが、その前身の店があったこと、それが「CHIGUSA」と言って渋谷にあったという話を僕は他で見たことがない。「CHIGUSA」時代は修二が東京に居た時期を考えて、大正15年12月以前の話だと考えられる。及川道子の父の店、オアシスがあったのも大正末期の渋谷(青山)で、修二もオアシスに通って居たという事。また、弟の楢原健三関連で調べると、どうも長谷川修二の実家は青山周辺にありそうなので、生活圏の中で「CHIGUSA」を見付けたのではないかと思われる。
このCHIGUSAの店内の描写は僅かなものだけど、大正末期の喫茶店の雰囲気が感じられて良い物だなあと僕は思う。
長谷川修二の文章について
此の頃のカフェなどの描写は他の人が幾らでも書いているとは思うけど、長谷川修二の文章には当時の若者で世代ど真ん中モダンボーイの感性による描写、という面で価値があるのではないだろうか。文豪のように器用ではないが、モダンに花開く都市を疾走した感性とでもいうのか。その息遣いと熱と脈拍その儘の文章を、僕は大変に愛おしく感じて居ます。
おしまい
長谷川修二についてもっと知りたい方はこちら。以前配信したものをPDFデータで販売しております。どうぞよろしくね。
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