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渡辺温関連聖地・調査報告書

前書き
此れまでに僕は、渡辺温関連聖地の巡礼を度々行っている。初めはただのオタクの嗜みと好奇心で。しかし一度歩いてみれば、温が居た頃と変わらない地形が僕の足裏を通じて傅える情報が非常に多く、またその場に身を置くことで取り入れる空気が肺を通じて、渡辺温作品への解像度をぐんと上げてくれた。温の足取りを追う事で、作品や彼の人生が何倍にも楽しく感じられるようになった。愛好家としては聖地巡りは止められないと感じる。

温に関連する場所を巡るだけ巡って、写真を取り、Xで少し出す位で全然記事にしてまとめて居らず、ネタはあるといえば澤山ある。
そういう訳で今回は、自分の写真入れから何となく取り出して、ざっくりとお見せする形にしたいと思います。



小名木川周辺

セメント技師の父の転任により、生後半年で温は北海道上磯郡谷好(現在の北斗市)から東京市本所區へ移転。その後、1歳になる8月に深川區猿江(現在の江東区猿江、住吉駅付近)に引っ越す。
温は1歳から10歳の夏までこの地で過ごした。

兄弟たちがよく遊んだという小名木川

兄・啓助の回想録には小名木川で遊んだ話がある。当時はものすごく汚かったとのこと。それでも泳いでいた少年たち。

小名木川。左手前の「整形」と書いたビルとサーモンピンクの建物の分が、渡辺兄弟の父の職場、鈴木セメント跡地(現在はニトリ)。社宅に住んでいたとの事なので、この土地の何處かに渡辺家の住居があったのではないかと思う。

渡辺温が溺れた現場付近

遊歩道に降りて等身大の目線で小名木川を眺める。
渡辺温と啓助の兄弟は、対岸にいる子供たちと口喧嘩をしたのだそう。当時の小名木川には橋が架かっていなかった。
また、温は小学校に入学してすぐの頃、此の川で溺れた事があるそうだ。けれども慌てず石垣に足を掛けて涼しい顔で出て来たとの事。
「弟は一面ひどく神経質でありながら、こんな工合に変に大胆で私は彼のアワテフタメクのを見た記憶は無い。」とは兄・啓助の話。

幼い兄弟たちから見たら、川岸の草はこんな風に高く見えたのかしらん。と、しゃがんで撮った写真。

ここへ行った2024年時点ではニトリではなく島忠だった。島忠の敷地から眺める小名木川。兄弟たちは家からこんな川を眺めていたのかもしれない?というイメージ写真。 

東川小学校

島忠を起点に兄弟の通学路を推測しながら、彼らが通っていた東川小学校まで歩いて見た。あのロマンチストで好奇心旺盛な二人なら、屹度極力川沿いを歩くだろうなあと思い、小名木川沿いを通って小学校まで歩いた。途中に家が密集している地域があり、彼らが歩いた明治時代はもっとぎゅうぎゅうに家が建っていたのかもしれない、と思う。
その頃の猿江はスラム街だったということを啓助さんが書いて居る。

今回の記事はざっくりなので、推定通学路の写真は割愛します。

東川尋常小学校に温は1909年4月〜1912年8月(4年生の夏休み)まで在籍していた。

兄弟の生活を追いたかった為、此の後は一旦下校気分を味わう為に東川小学校から島忠(現・ニトリ)まで戻った。

下校時は他の子供たちとわいわい帰ったり、行きとは違って最短ルートを使うのではないかなと想像して別の道から帰る事にした。
すると、道中に大きな神社を見付けた。

猿江神社

境内はとても広く、創建はハッキリしないが1058年頃にはもう存在していたという歴史ある神社だった。此れは明治時代の小学校帰りの子供たちが遊びに行かないわけはないと思い、推定渡辺兄弟の遊び場、として懐かしいような気持ちでお参りさせていただいた。

暮れかけた小名木川。温が物心がついてからずっと共に暮らしていた川だ。晴れた日も雨の日も、朝も昼も夜も。温は此の川の表情を目に写して育ったのだろう。
水面の輝きと儚さが彼の作品の深い部分に影響を与えたであろうことを、僕は何となく感じた。

猿江から淺草まで歩く

温7歳、啓助8歳の頃、二人は猿江から徒歩で淺草まで遊びに行ったと言う。親から貰った散髪代を節約して、映画代を捻出して楽しんでいたという事。
この幼い二人の足取りを追体験したくて、僕も猿江の鈴木セメント跡地から淺草六区まで歩いてみることにした。

昼間のうちに行きたかったが、休憩して居たら19時頃になってしまった。淺草を目指して夜道を一人で歩く。

俺はいい年した大人だし、googlemapもあるし、ラジオを聞きながら歩いて居た。けれどそれでも淺草は遙か遠く、道のりは心細く感じた。何処迄行ってもスカイツリーの姿が見え、まだまだ全然進んで居ない事を感じさせられた。

夜の住宅街は暗く人気もなくて本当につらかった。隅田川まで出たときは街の灯が迚も頼もしく見えた。淺草へ行く渡辺兄弟も、きっとわくわくしていたに違いない。

二時間歩いて淺草の街に出ることができた。やっと知ってる景色に辿り着き、心の底から安堵した。行きと帰りで違うものの、迷子になった兄弟の心細さと安堵感が理解出來た気がした。だが、此處で終わりではない。温と啓助が映画を見に行った六区はまだまだこの先。

適当に商店街の中へ入り、浅草寺の方から六区へ行った。居酒屋が多く賑やかだった。
と、ここまで来て気付いたのは、昭和4年10月17日に渡辺温が及川道子の初出演映画を道子とその妹の強子と共に見に行ったのも淺草だったと云う事だった。単に東京の有名な歓楽街の一つ、という事で温は特別何も思って居なかったかもしれないが、幼い頃に啓助と共に何度も映画を見に行った場所で、最愛の人のデビュー作を見ることになったんだなあと、僕はそこにドラマを見いだし勝手に感慨深く感じた。

此の日の歩数。

小名木川や東川小学校をうろうろして居たけれど、恐らくこのうち2万歩くらいは小名木川→淺草間のものではないだろうかと思う。本当に疲れた。幾ら子供とはいえ、幼い日の渡辺兄弟は元気すぎる! と思った。二人の健脚ぶりが知れたのも良かったかもしれない。

築地小劇場周辺

築地小劇場は大正時代の渡辺温の青春そのものと言っても過言じゃないでしょう。温を世に出し、その後大正時代に師事していた小山内薫の主宰で、恋人の及川道子が所属し、また築地小劇場周りの人と温は親交が多く、人脈もたくさん増えたであろう場所です。渡辺温を語る上で絶対に欠かせないのが「築地小劇場」だと僕は考えています。

築地小劇場跡の記念碑。

公演後の雰囲気を感じたくて夜にも訪れた。

夜はこんな感じ。
大正時代とは随分と景色が変わっているけれど。
及川道子を迎えにいった渡辺温ごっこ。

山高帽にインバネスを着たシルエット。温も同じような影を此の路地に描いて居たのだろうか。

祝橋

これは東銀座と築地小劇場を結ぶ最寄りの橋「祝橋」。此の下には現在首都高が走っているが、何度行ってもどうしても此處に川が流れていると僕は思い込んでおり、首都高がある事に全然慣れない。笑

東銀座というのはモダンボーイの聖地だったそうで、本当に洒落た人たちは此のエリアで遊んだのだそう。渡辺温は銀座をぶらりと散歩した後、この橋を通って及川道子が出演している築地小劇場へ迎えに行ったのではないかな、と僕は思った。
時には時間まで此の橋の上でぼんやりと川を眺めて居たのではないだろうか。現場に来るとそのような事を思う。

祝橋から眺める景色

現在の祝橋の下の光景。車が流れて行く様もそれはそれで見飽きないものだけど。

東銀座の十字街にあったプロントでカナディアンクラブを飲んだ時の写真。カナディアンクラブは渡辺温が何時も飲んで居たお酒で、此の時の気持ちは「及川道子を迎えに行くまで近くのカフェで時間を潰してる渡辺温」ごっこです。

青山通り

及川道子の自宅兼喫茶店・オアシスがあった青山通り。兄・啓助は青山学院大学に通っており、青山通りも温の青春の地。築地小劇場から道子を青山まで送っていった話は有名で、道子本人の回想録とゴシップ記事にも記されている。

銀座から赤坂見附まで散歩をしてみた

渡辺温が銀座からふらりと散歩をして赤坂見附あたりまで行くという話は有名で、いろいろな場所でその話を目にする。(故に今回はソースは勘弁してください。余裕なくて……)
気候の良い時に僕は、山高帽とインバネスで同じように歩いてみる事にした。因みに温がシルクハットを手に入れたのは昭和2年の12月24日らしく、それ以前からの知り合いは山高帽のイメージが強いとの事。

昼の祝橋。この後ろには公園があります。

温がふらふらっと散歩に繰り出すとしたら、東銀座あたりでぶらぶらして、その儘なんとなくというのが始まりかな?と想像した。

日比谷公園

銀座の大通りを歩くと日比谷公園に着いた。恐らく温も目にしたであろう、門。

此の門柱も温の時代からあった筈。

山高帽とインバネス。散歩する温も此樣な樣子であったかもしれない。

赤坂見附近くの官公庁街。霞ヶ関だったか、一寸忘れたけれど、戦前からありそうな建物が多く、温もこのように聳え立つ建築物を眺めながら歩いて居たのだろうなあと思った。

恰度此の邊りを歩いて居た時だったが、急に尿意を催して非常に困った。まずコンビニなど、入れる店が何も無い。日曜日で何処も閉まっている。必死に我慢して事なきを得たけれど、此の時思ったのは「温はどうしていたのだろう?」と云う事だった。あの頃はトイレを貸してくれるコンビニも無い。
……やっぱり昔の人だから、適当に立ちションで済ませたのかしら。”巷説「街の天使」”の主人公は新橋で堂々と立ちションをしているし。等と妙な所まで渡辺温の生活の解像度が上がった。



Googlemapで確認すると1時間足らずの距離だったけど、初めて行く道ということと、人気の無い官公庁街で、激しい尿意との戦い、という事で実際はもっと長く感じた。

けれど此の散歩コースを歩いてみて感じたのは、渡辺温という人のセンスの良さだった。
華やかな銀座のショーウインドウやネオン、紳士淑女の波を抜ければ自然豊かでモダンな日比谷公園、その先を行くと味気なく、また或いは厳めしい顔をした建築物が建ち並ぶ官公庁街で、最後の赤坂見附では山の上に日枝神社がある。



短い時間の中に、東京という街の魅力が濃縮されたようなコースだった。そりゃあお散歩も楽しかっただろうね、と思う。
また、僕は温の真似をしてステッキをついて出掛ける事があるのだが、ステッキをつきながらする散歩は格別で、杖先で感じる地面の震動やリズム、此れがまた心地よく、歩く上でよき相棒のように感じる。

散歩をする温の心の中は、感傷的で寂しいものだったかもしれないが、東京の景色とステッキが幾分彼を慰めて呉れたのかもしれないと思う。

コロンバンのアップルパイ

コロンバンの箱
果肉たっぷりアップルパイ

渡辺温はコロンバンのアップルパイが好きで、日立の実家で食べて居た、と確か妹さんの回想録にあった。当時は銀座のコロンバンに売っていたのだと思うけれど、現在では原宿店と新宿店くらいにしかないそうで、これは新宿店で購入したもの。
とにかくめちゃくちゃ美味しかった。
温が好んだ食べ物に外れなし。温のセンスの良さというものを感じた体験だった。

京都・四条大橋

京都に行けば必ず通る四条大橋、そうして毎回写真に撮らずには居られない東華菜館(大正15年竣工)。

京都四条大橋から臨む東華菜館

ここは昭和2年の秋頃に渡辺温が京都の撮影所に取材へ行った後、内田吐夢と日活画報の伊藤氏と酒を飲んだという四条大橋のほとり。その日にも屹度、東華菜館はこのような立派な姿を見せていたことでしょう。
因みに対岸にある「菊水」も大正時代からのレストラン。菊水の向かいにある南座には及川道子が出演した事もあり、四条大橋周辺はなんとなく渡辺温関連聖地のようになって居ます。

鎌倉材木座周辺

渡辺温が鎌倉の由比ヶ浜に引っ越したのは昭和3年9月。此処には先に横溝正史一家が住んでおり、博文館を退社した温が妻・山田まりと共に移り住んだ。その後11月に材木座の上河原に転居。横溝正史とは隣近所だったとのこと。由比ヶ浜の家の場所は特定出來ないので、上河原の方を訪ねる事にした。

此の日のルートは鎌倉駅→材木座海岸→上河原周辺→由比若宮(神社)を通って鎌倉駅へ帰った。特に上河原周辺〜鎌倉駅へのルートは、温や横溝が出掛ける時に眺めた景色や雰囲気が想像させられて楽しく感じた。
家の近くは海が広がり、駅の方へ行けばそこそこ賑やかという自然と街がバランスよく共存する場所で、新しいものが好きなモダンボーイの温も退屈しすぎない場所だったろうなあと思う。

昭和3年頃の鎌倉の地図が見つからなかったので、とりあえず此の邊りだろうと思った「上河原」のバス停に行ってみた。
現在の住所は「材木座1丁目」らしく、上河原という地名はもう無い。しかしバス停には昔の呼び名が残って居るようで、この事からも温たちが住んでいたのは此の邊りで間違いないのでは、と思った。

上河原のバス停

上河原のバス停付近。道路の右側、車が停車している場所やその向こうの家など、渡辺温と横溝正史の家は此の邊りだったのかもしれない、と思う。
鎌倉時代の事を横溝正史は、温も横溝も貧乏だったという事を書いて居る。故に川に面した細い土地の頼りない家を僕は想像した。

バス停のすぐ近くにある上河原橋

渡辺温がいた時代の博文館があった「戸崎町」も現在は名称が変わっているが、自治会などには「戸崎町」の名が残って居る。上河原も同じような感じなのだろう。

上河原橋付近の川。地形は屹度、温や横溝が居た頃と同じだろう。

上河原橋付近に流れる川。渡辺温の人生には川や海がつきものだなあと感じる。

10月の海

温が鎌倉に住んでいたのは昭和3年9月から昭和4年4月まで。材木座で夏の海を見る事無く、彼らは引っ越した。
此の濱に座って海を眺めて居ると、温もこうしてぼんやりと一人で海を眺める事があったのではないかな、という気がした。

銀座 バー・サイセリア周辺

渡辺温が妻の山田まりと出会い、横溝正史、水谷準と共によく飲みに行っていたバー、サイセリア。この店には中村進治郎、城昌幸、岩崎昶等様々な文化人が出入りしているようだった。「銀座ハイカラ女性史/野口孝一・著」によると「銀座のバーのうちで形式、実質ともにもっとも近代的な店」とのこと。
サイセリアは並木通りにあったそうで住所は「銀座西5ー3」だそう。
なので大体此のあたりかなと思い、銀座に来たついでにこれからサイセリアに行く客になった積もりで、ぶらりと歩いてみた。

並木通り

昭和初期の銀座もネオンが華やかだったそうで、今とそう変わらない光景が見られたのかもしれない。写真がブレて居るのは、酔っ払いの視界と云う事でひとつご勘弁。泥酔した温たちが見た銀座は、こんなブレじゃ済まないくらいぐらんぐらんだった事でしょう。

此れは銀座のバーではないけれど、とあるバーでカナディアンクラブをロックで飲んだとき。温も此樣な風に飲んでいたのかな、と思いながら。

新宿中村屋

バーバリーの外套がおすすめ、という新青年の教えを守るネオモダンボーイです。

「モダン夫婦抄 赤いレイン・コートの巻」で「じゃあ、いっそ晩飯は、中村屋の露西亜煮(ボルシチ)か何かにしようじゃないか」という台詞があったので、新宿の中村屋にボルシチを食べに行った。

中村屋のボルシチは上品でめちゃくちゃ美味しかったです。しかし、普通カレーの中村屋に行ってボルシチを食べようと思うかね?と思うんだけど、一度食べたらもう一度食べたいなあと思う程美味しかった。
カレー屋であえてボルシチを注文し、しかもそれが頗る上手いという……ここでも温のセンスの良さを感じる事になった。

うどんのミートソース

巷説「街の天使」で女の子が作った料理。「うどんに挽肉をいれていためたもの」こと「マカロニ・アラ・ミラネエズ」。材料は「うどんと挽肉とトマトソース」との事で、玉葱は入っていないけどまあ大体こんな感じだろう。
実際に作って食べてみると、美味しいけれど何処か垢抜けない、のんきな感じがする味わいだった。この料理があのモダンで軽妙な物語のラストにあるものだと思うと、作品の持つ明るくユーモラスな雰囲気と昭和4年の空気感をより一層強く感じられるようになった。此れは非常によい体験だった。

本牧・チャブ屋跡地

本牧はチャブ屋という洋風高級売春宿(ダンスや食事、社交の側面もあったので、売春だけが目的という場ともまた少し違う)があり、渡辺温は本牧に住む岡田時彦や、新青年界隈の友人たちと一緒によく遊びにいったそう。温の作品「シルクハット」や「あゝ華族様だよと私は嘘を吐くのであった」の舞台にもなって居る。

横浜駅からバスに乗って本牧へ向かった。

バス停から降りた景色。

この交差点を右手に行き、その先を手前に曲がるとかつてのチャブ屋街。
横浜駅からバスしかなく、少し行きづらいしバス停から降りた後も温たちが遊びに行っていたキヨホテルまでは15分近く歩く。酒を飲んで、女の子と遊ぼう!となっても酔いが覚めそうな距離だなあと思ったが、彼らは圓タクなのでそんな心配は無用なのだと気が附いた。
チャブ屋にはタクシーで行くしかないのだと僕は痛感した。

チャブ屋跡は現在はホームセンターや学校になっているよう。
木々があるせいか少し薄暗い雰囲気で、かつての夜の町の空気を思わせた。
左側は現在は道路があり、浄水場や公園などがあるようだった。温が遊んでいた頃は、海だったらしく「シルクハット」の話で、二人が朝に海で喋って居たのは、店を出てスグの場所だったからか、と理解した。

昔は海だったよう。シルクハットのラストで二人が話して居た海は此の辺りだったのかも。

シルクハットにモーニングで記念撮影。

キヨホテルがあった付近は集合住宅になっていた。横浜の中心から離れた場所であり、海と港に隣接したこの場所でどんな夜が繰り広げられていたのだろう、と思いをはせた。こんな場所だったら多少大騒ぎしても誰も咎めないだろうし、隠れ家的な良さがある場所だと感じた。


大正15年12月竣工の橋の柱。タクシーで来る温はこの橋には行かなかったかもしれないけど、唯一あの頃の面影を殘すもの。

橋の向こうへいくと海が見えた。「本牧で海を眺める」という事がしたくて見に行った。雑草が生い茂っており、当時もこんな感じだったのかもしれないなあと思った。

小日向台〜博文館への通勤路

昭和4年4月〜6月まで渡辺温は横溝正史と共に鎌倉を出て、横溝宅に同居している。
その横溝正史の家はこの小日向台小学校のすぐ近くだ。此の辺りには森下雨村を始め博文館の関係者が多く住んで居たという。
横溝家の跡地は現在、一般の住宅が建っている。渡辺温の通夜が行われた家も此処であると思われる。

小日向台小学校。昭和4年竣工の建物。

温と横溝が越してきた頃に完成した建物。この校舎を眺めながら二人は二日酔いの中、通勤していたのかもしれない。

小日向台小学校を通り過ぎ、暫く行くとキリシタン屋敷の跡があり、階段を下ってトンネルを抜ける。

そしてトンネルを抜けた先にあるのはこんな景色だ。地図で確認したところ、横溝宅から博文館への最も近い道のりがこの道だと思われるため、恐らく此処が通勤路ではないかと思う。
但し、二日酔いの横溝は人力車で通勤することもあったそうなので、そうなると別のルートかもしれない。
階段を上ると大通りに出て、信号を渡ると長い坂を下りていく。
坂を下った先にあるのが博文館の子会社だった共同印刷。

共同印刷を博文館側から写した写真。

共同印刷の前の路地を入り、小石川植物園方面へ。山高帽とインバネスを着たシルエットで渡辺温の通勤気分を味わう。

小石川植物園を壁沿いに歩き、お寺と植物園のT字路を曲がった坂道の途中あたりに旧博文館があったそう。現在は道路沿いに家が建っていて全然面影は感じられない。民家なので余りじろじろと見ることも出来ず、普通の散歩の人を装って何となく歩いた。

ちなみにこの先をずっと上って行くと指ヶ谷町になり、岡戸武平の家のあたりになると思われる。(最寄りが指ヶ谷町の電停との事)

久世山ハウス周辺

渡辺温は妻と共に、昭和4年11月から小石川区小日向水道町久世山ハウスに住み始めた。結局此れが温の最後の家になる。
昭和4年頃の地図を見ても「久世山ハウス」が何処なのかハッキリと解らないが「久世山」の名を冠した建物がある此の邊りの…地図で見ると長方形の建物が何列か並ぶその辺りかなあと目星を付けて歩いて見た。大体この「鷺坂」を上がって高台になっている辺りが「久世山」らしい。
最寄り駅は江戸川橋になる。

堀口大学らが命名したという「鷺坂」

インバネスと山高帽で此の坂を歩いていると、ご近所さんで井戸端会議といった樣子の100歳くらいのご婦人が「私が小さい頃はあんな服を着た人がよくいたんだよ」と、僕の背後で70歳くらいのご婦人に話していた。
100歳位の人の幼い頃は昭和4年か5年……ということで、ひょっとしたらそのご婦人が見たインバネス姿の人は渡辺温だったかもしれない、等と想像し少し楽しくなった。

一つ目の坂を上がり、角を曲がると二つ目の坂を上がる。温が住んでいた「久世山ハウス」はこの坂を上がって左手くらいだろうか?と思う。久世山ハウスがあったかもしれない所は、現在は豪邸や高級マンションが建ち並んでいてとても撮影する気になれない。僕が不審者になってしまう。

僕は此の久世山と小日向台、それから戸崎町に吸い寄せられるように何度も訪れてしまって居る。そんな中で夜に行ってみたときの写真がこちら。

江戸川橋

江戸川橋駅から降りて久世山に帰る渡辺温ごっこ。飲んだ帰りは市電なんか使わずに圓タクばかりだったと思うけど、こんな日も無くは無いかもしれない。この写真のブレも、酔っ払った温の視界だと思ったら中々良いものでしょう?

山高帽とインバネスで夜の坂を歩く。温が此の道を使うことは少なかったかもしれないけれど。方角的に久世山→戸崎町(博文館)はこの坂と逆方面で、江戸川橋駅を使わない限りこの道は余り用がなさそうだ。

久世山ハウスを推測する

「久世山ハウス」という名前からして、当時流行りだったアパートメントのようなものだったのかもしれないと思った。温も妻のまりもモダンな趣味を持って居るから、そういった場所を好みそうだと思う。

当時の最先端アパートメントだった同潤会の再現展示を見に行った時、温とマリが住んで居た家庭もこんな感じだったのかな?と思って見て居た。

此れが温の家なら、その左側の箪笥から拳銃が一丁出てくるね。

台所。水場。

この下辺りに、大きな氷を入れて冷やす冷蔵庫が置いてあった。

台所2 水場の右側はこんな感じ。

竹を切ったものがカトラリー立てとして壁に掛かっている。
同潤会アパートほど広くなかったり、設備はこれ程ではないかもしれないけれど、久世山ハウスはこんな感じの家だったのかもしれない。
そういえば岡戸武平さんは温の久世山ハウスに遊びに行ったことがあるんだよね。家の中をもう少し詳細に書いてくれたら何か分かりそうだけど、もう少し頑張って行間を読んでみる事にします。

おまけ・生誕の地の近く

渡辺温が生まれたのは北海道上磯郡谷好村だという。木古内は同じ「上磯郡」だが谷好村はここから26km程先の場所。結構遠いですね、ごめんなさい。友人と青春18切符の旅の途中のため、温の事は全然念頭に無かったのだが、乗換待ちの間不意に「あれ、此處もしかして温の生誕の地の近くじゃね!?」と思い、一人で駅前の空気を吸いに降りた次第です。
この空の広さや平坦な土地など、幼い渡辺兄弟が身を置いた雰囲気は、そう遠くないんじゃないかなと思って居ます。

因みに谷好の地図を見ると、渡辺温たちの父の職場だったのでは、と思われるセメント工場が現在もある。

google mapより

昭和4年頃の渡辺温とその周辺の人たち

最後におまけとして、昭和4年頃の渡辺温や周りの人たちがどんな雰囲気だったのか解るように集めた写真を貼りたいと思う。

AIで自動カラーにしてもらった渡辺温。リボンタイはシルクの黒じゃなかろうかと思うけれど。カラーにすると現実の中へ温が戻って来るような感じがする。

国会図書館デジタルコレクションより

昭和4年頃の横溝・水谷。渡辺温と銀座で飲み歩いて居た頃の二人。水谷さんのシャツとスーツのトレンド感が見所だと思います。

国会図書館デジタルコレクションより

昭和4年〜5年頃の及川道子(右)真ん中は上山草人、左は八雲恵美子。
上山草人は昭和5年に乱歩らとの対談で新青年に登場。その後も乾信一郎が原稿依頼へ行くなど、新青年とは縁がある人。だが、温とは面識はなさそうだ。
八雲恵美子さんは新青年や渡辺温とは関わりがなさそうだが、銀座に本人が立って接客をするバーを経営していたとの事で、すれ違った事くらいはあったかもしれない。

国会図書館デジタルコレクションより

昭和4年頃の長谷川修二とその妻・若宮美子。長谷川修二は渡辺温が事故死した時に一緒にタクシーに乗っており、一緒に飲み歩いていた学生時代からの親友。
若宮美子は築地小劇場出身で、この頃は関西で活動していた。

実はこうして並べて眺めたのは初めてなのですが、改めて渡辺温とその周囲を見るとお洒落でかっこいいな〜と感じました。
本当に、渡辺温の人生自体がまるっと作品のようで、その儘成瀬巳喜男監督で映画になってもよかったんじゃないかと思う程に。

聖地巡りをすると、作品の解像度が上がって行く前の10倍くらい作品がみずみずしく感じられるようになった気がします。
此れからも渡辺温の身の上にあったものを極力体験、再現して、作品に出てくる固有名詞も総て調べていきたいです。

=おしまい=

場所ごとの詳細な聖地めぐり解説記事は何れ作りたいと思っています。

日立のお墓参りと聖地巡りはこちら。


参考文献

  • ネ・メ・ク・モ・ア/渡辺啓助

  • 銀座ハイカラ女性史/野口孝一

  • アンドロギュノスの裔/渡辺温(創元推理文庫)

  • 叢書新青年渡辺温

  • 渡邊溫選集 あゝ華族樣だよと私は嘘を吐くのであつた

  • 惜春賦/横溝正史

  • 博文館の侍たち/岡戸武平

  • 弟ワタナベオンの思い出/渡辺啓助

  • いばらの道/及川道子

  • 及川道子涙痕記/實話時代 昭和7年1月号

  • 新青年傑作選(立風書房)月報の横溝・水谷対談

  • 滋子さんインタビューより(温と啓助の妹)/創元推理21 2001年夏号


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