猫が教えてくれる「中庸」という生き方|頑張りすぎる私たちへ
私たちは小さい頃から、さまざまな価値観の中で生きています。
頑張ることは素晴らしいこと。
自分より他人を優先し、我慢することが美徳。
仲間外れにならないよう、コミュニティに属していなければならない。
知識や情報をたくさん持っている人が“優れている”とされる。
地球上で人間が一番偉い。
お金や物の豊かさが成功の証。
誰かより秀でている人が立派。
言い始めたらきりがありません。
それは、おそらく現代社会、特に日本人の一般的な価値観のように見えます。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
私は猫と暮らす中で、ときどきそんな疑問を抱きます。
猫は人間社会の価値観で生きていない
猫は、人間社会のような価値観では生きていません。
甘えたいときには甘える。離れたいときには離れる。動くときはしっかり動き、休むときは徹底して休む。無理に群れず、自分にとって心地よい距離感を大切にする。
そんな猫の姿を見ていると、「自然な生き方」とは何だろうと考えさせられます。
そこから見えてくるもののひとつが、「中庸(ちゅうよう)」という考え方です。
「中庸」と「中道」
中庸とは、もともと中国思想、特に儒教の中で生まれた言葉です。
そこでは、
偏りすぎないこと
極端に走らないこと
その時々に応じた、ちょうどよい在り方
バランスの取れた状態
を意味しています。
ただし、それは単純に「真ん中を選ぶ」という意味ではありません。
感情を押し殺すことでも、何も主張しないことでも、無難に生きることでもない。
「どちらか一方に偏りすぎず、本来の安定した中心に戻ること」
そんな感覚に近い言葉です。
そして、この考え方は仏教の「中道(ちゅうどう)」にも通じています。
仏教では、
欲望のまま快楽を追い続けること
逆に、自分を厳しく苦しめすぎること
そのどちらも“偏り”だと考えます。
だからこそ、
頑張りすぎない
我慢しすぎない
求めすぎない
依存しすぎない
けれど同時に、
無関心になりすぎない
冷たくなりすぎない
その「ちょうどよい在り方」を探していく。
それが、中庸や中道の考え方です。
人は偏るほど苦しくなっていく
もちろん人間ですから、何かに偏ってしまうことはあります。
けれど極端になると、人は少しずつ「自分の中心」を見失っていきます。
頑張ることが大切だと思いすぎると、休むことに罪悪感を抱くようになる。他人を優先しすぎると、自分の気持ちがわからなくなっていく。人とのつながりを求めすぎると、ひとりでいることが怖くなる。逆に、人に傷つくことを恐れすぎると、誰とも深く関われなくなってしまう。
お金や成功を追い続ければ、今ある幸せを感じにくくなるかもしれません。知識や情報を詰め込みすぎれば、頭は忙しいのに、心は置き去りになってしまうこともあります。
そして人は、偏れば偏るほど苦しくなります。
だから中庸や中道では、「どちらかを完全に否定する」のではなく、“偏りすぎないこと”を大切にします。
もちろん、頑張ること自体が悪いわけではありません。人を大切にすることも、知識を持つことも素晴らしいことです。
ただ、それが「〜しなければならない」になった瞬間、人は苦しくなっていくのかもしれません。
だからこそ大切なのは、「偏ってはいけない」ではなく、偏りそうになった自分に気付き、また自分の中心へ戻っていくことではないでしょうか。
猫は「今」を生きている
我が家にいる7匹の保護猫たちを見ていると、彼らは誰かに依存しすぎることもなく、かといって孤立しているわけでもありません。
走り回っている猫の隣で、「自分も運動しなきゃ」と罪悪感を抱きながら眠っている猫はいません。
一年後の自分の健康を不安に思い、ご飯を我慢してダイエットしようとする猫もいません。
ただ、「今」という時間を感じながら生きています。
そんな猫を見ていると、「力を抜くこと」「自分を守ること」「今を感じること」の大切さに、あらためて気付かされます。
自分の感覚に正直で、必要以上に執着しない。
猫たちは、そんな中庸という在り方を、静かに教えてくれている存在なのだと感じます。
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