道徳授業の「うばわれた自由」、"本当の自由"に着地させていませんか
規律か自由か、あなたは最後にどちらの旗を掲げていますか
規律を窮屈に感じ、自由な国を求めて森へ逃げ込んだ王子ジェラール。猟師頭ガリューのもとで、彼はしばらく自由を満喫しますが、やがてその「自由」が実は誰かを踏みにじる力の支配にすぎなかったことに気づいていきます。
高学年の「自由と責任」の授業で、多くの先生がこの教材を使ってきたはずです。授業の終盤、「本当の自由とは何だろう」という発問から始めて、「自由には責任が伴う」という一文に着地させます。子どもたちは「わがままは自由じゃない」「ルールがあるから安心して自由でいられる」と、きれいにまとまった感想を書いてきたことでしょう。
私もこれまで、こうした着地に満足していました。なぜなら、規律の大切さが腑に落ちる、道徳らしい授業だと思っていたからです。
でも、この「着地のきれいさ」こそが、実は少し危ういのではないかと考えるようになりました。
この授業、実は"市民教育の理想形"をなぞっているだけかもしれません
「自由には責任が伴う」というまとめは、一見すると誰もが納得できる正しい結論に見えます。けれど、それは同時に、自由を求める立場と規律を重んじる立場の対立を、話し合いによって最終的に解消できるという前提に立っています。
この前提は、実はシティズンシップ教育が長らく手本にしてきた考え方そのものです。ハーバーマスに代表される討議理論は、市民が理性的に話し合いを尽くせば、自由と規律のようなテーマについても合意に至れると考えます。「うばわれた自由」の定番的な授業展開は、まさにこの理論の縮図になっているのです。
しかし、政治哲学者シャンタル・ムフは、この前提そのものを疑います。自由を求める声と、秩序を求める声は、民主主義が存在する限り消えることのない対立であり、話し合いによって「解消」されるべきものではなく、両者が正当な立場として存在し続けられる空間をどう保つかが問われるべきだ、とムフは論じます。
そう考えると、ジェラール王子とガリューの対立も、単に「未熟な自由観から、成熟した自由観への成長物語」として片づけてよいのか、疑問が残ります。ガリューの掲げた「規律に縛られない生き方」にも、王子が窮屈に感じていた宮廷の規律への、正当な異議申し立てが含まれていたのではないでしょうか。
ムフの闘技民主主義——対立は"卒業"するものではない
ムフの理論のポイントは、対立を「未熟な段階」と見なさないことです。子どもが「自由には責任が伴う」と理解することを、対立を乗り越えた成長のゴールとして扱うのではなく、自由を求める立場と規律を求める立場は、これからもずっと、教室の中でもクラスの外でも、正当な対抗者として存在し続けるという前提に立ち直すことができます。
この視点に立つと、授業のゴールは「正しい自由観にたどり着くこと」ではなく、「自由を求める気持ちと、規律を求める気持ちの両方が、自分の中にも他者の中にも、これからも共存し続けることを認識すること」に変わります。
授業でできる3つの転換
①「本当の自由」という言葉を封印してみる
「本当の自由とは何か」という発問は、暗に唯一の正解を想定させてしまいます。代わりに「ジェラール王子とガリュー、どちらの言い分にも一理あるとしたら、それはどこだろう」という発問に変えてみてください。
②結論を"責任"の一言で閉じない
「自由には責任が伴う」で締めくくる代わりに、「それでも窮屈さを感じることは、悪いことなのだろうか」と問い返す一文を加える。規律への違和感そのものを否定しない終わり方です。
③物語の外の対立に接続する
「学校のきまりについて、自由だと感じることと窮屈だと感じることを両方書いてみよう」など、教材の外にある子ども自身の対立へつなげる。教材内の対立で終わらせず、教室という現実の空間に対立を持ち帰らせることが、闘技的道徳学習の第二の条件(対立の空間を開き続けること)にあたります。
その対立、卒業させなくていいのかもしれません
「うばわれた自由」を「自由には責任が伴う」という一文で締めくくる授業は、たしかにきれいにまとまります。けれど、そのきれいさは、自由を求める声を静かに封じ込めているだけかもしれません。
自由と規律、どちらの旗も掲げたまま、それでも同じ教室で学び続ける——そんな道徳の時間を、次は中学年の教材で考えてみます。次回は「絵はがきと切手」を取り上げ、「誠実さと思いやり」という、もう一つの終わらない対立について考えます。
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