これまで歩んできた道⑧東日本大震災と被災者支援編
こんにちは。
アレテーを求めて~
今日もトコトコ( ・ω・)
弁護士の岡本卓大です
自己紹介として、2023年にアメブロで公開した
これまで歩んできた道
シリーズを再編集したものを投稿します( ・ω・)
簡単に私の略歴も書いておきます。
(略歴)
1976年11月15日 兵庫県三原郡南淡町(現在の南あわじ市)で生まれる。
1995年3月 兵庫県立三原高等学校卒業
1996年4月 白鴎大学法学部入学
2000年3月 白鴎大学法学部卒業
2004年 司法試験(旧司法試験)合格
2005年4月 司法修習(実務修習地・さいたま)
2006年10月 弁護士登録
2006年10月~2007年9月 埼玉総合法律事務所(法テラス・スタッフ弁護士養成)
2007年10月~2011年12月 法テラス川越法律事務所(法テラス・2期生スタッフ弁護士)
2012年1月~2014年6月 埼玉総合法律事務所(経費分担弁護士)2014年7月~2022年12月 あさか総合法律事務所代表弁護士
2022年12月 アレテー法律事務所に名称変更
(弁護士会会務)
2011年度~2012年度 埼玉弁護士会東日本大震災対策本部事務局次長
2014年度~2016年度 埼玉弁護士会子どもの権利委員会委員長
2017年度~2019年度 埼玉弁護士会憲法改正問題対策本部事務局長
2020年度 埼玉弁護士会副会長
(前回のお話)
これまで歩んできた道⑧東日本大震災と被災者支援編
2011年3月11日14時46分。
そのとき、僕は、愛車のパッソに乗って、川越から東入間警察署に向かっているところだった。
突然、ハンドルを取られる。
地面が波打っている感覚・・・
車内で流れていたラジオではパーソナリティが地震ですと叫んでいる。
停電し、信号機も止まっている。
長い揺れ・・・
正確な情報は、まだわからない・・・
ラジオからの情報によると、震源地は、東北のよう・・・
僕は、阪神淡路大震災を経験していた。
中越地震のときは、被災地からは遠く離れた東京で揺れを感じた。
だからこそ、震源地が東北という情報を聞いてすぐにわかった。
東北は、壊滅した・・・
と・・・
揺れがおさまった後、信号機がつかない停電した道路を車で走り、接見を行う。
帰りは、普段は、車で15分程度の法テラス川越法律事務所までの道を2時間以上かけて戻る。
まずは、所内の弁護士や事務スタッフの安否確認。
そして、自分の妻(当時は「夫婦別姓」にこだわっていたため内縁)とも連絡がつく。
妻は、震災当日は、東京都内の当時の職場に泊まることとなった。
法テラス川越の事務職員の人たちが電車で帰ることができなかったため、自宅が同じ方向の他の弁護士が車で職員の人たちを送っていく。
一人自宅に戻る。
テレビをつける。
そこに広がっていた光景は、自分の想像を超えるものだった・・・
地震による倒壊だけでなく、津波に流される東北沿岸部のたくさんの町・・・
後に東日本大震災と名称がついた未曾有の大災害。
マグニチュード9.0
最大震度7
死者 19,747人
行方不明者 2,556人
住宅被害 1,154,893棟
さらに、この東日本大震災は、福島第一原発事故をも発生させた。
小学生のときに、チェルノブイリ原発事故(※ ロシアのウクライナ侵攻以降、ウクライナ語の「チョルノービリ」に呼称変更)があったことは記憶に残っていた。
原発事故が日本で起こった。
未曾有の大震災に加えて、大きな衝撃だった。
たくさんの人たちが、原発事故の起こった福島から全国各地に避難する。
関東では、計画停電も行われた。
昼は事務所で停電。夜は自宅で停電という日もあった。
全国の弁護士たちの間で、メーリングリストができた。
最初は、安否確認。
弁護士の犠牲者は一人もいなかったが、被災地のひまわり公設の事務員には、津波により命を失った犠牲者も出た・・・
2011年3月下旬。埼玉県は、さいたまスーパーアリーナを避難所として、原発事故避難区域の人たちの避難を受け入れた。
町ごと何台ものバスで避難してくる双葉町の人たち・・・
双葉町以外からも、さいたまスーパーアリーナに数千人の避難者がやってきた。
反貧困の活動(日比谷派遣村を運営した人たち)をしていた弁護士たちが、さいたまスーパーアリーナで相談活動をしようと提案し、僕も、さいたまスーパーアリーナに向かった。
埼玉県は、さいたまスーパーアリーナを避難所とすることは決定したものの、当時、避難所運営のノウハウは持っていなかった。
それが幸いする。
さいたまスーパーアリーナに、物資、食料の支援、医療支援、介護支援、そして、様々な専門家による相談支援。
ボランティアを中心とした総合的な支援を行う画期的な体制を持った避難所が瞬く間に生まれた。
僕たちは、ボランティアグループの中の「相談班」となった。
弁護士、司法書士、行政書士、税理士、臨床心理士、精神保健福祉士、社会保険労務士、社会福祉士、女性相談等の様々な分野のプロフェッショナルがさいたまスーパーアリーナ245エリアに集まり、複合的な相談支援活動を開始した。
ただブースで相談を待つのではなく、アウトリーチと言って、さいたまスーパーアリーナの通路に段ボールを敷いて過ごしていた避難者の方たちを回り、そのニーズの聴き取りも行った。
相談班のリーダーは、ボランティア本部から動けない。
なぜか、僕が相談班の現場責任者のような立場で活動をすることとなった。
相談のニーズは、日々変わる。
初日は、着の身着のままで避難してきた方たちがお金をおろせるように、通帳やカードが無くても預貯金をおろすことができるように金融機関と調整。次は、身分証明書が無い人たちが、運転免許証を再発行できるように、免許センターと調整。
その次は、避難により働くことができなくなった人たちが雇用保険を受けられるように・・・
といったように、その日、その日の避難者のニーズに応じた連絡調整や交渉を毎日行っていった。
もちろん、無償奉仕だ。
弁護士たちにとっても、これまで経験したことの無い事態。
まだスマホが普及していない時代でガラケーを使って、検索した情報を、紙に書いて、245ブースの壁に貼りだしていった。
今なら、静岡県弁護士会の永野海さんが、被災者支援情報をしっかり整理してくれているが、当時は、そんなものはなく、まさに手探りの支援情報集めだった。
そのうち、さいたまスーパーアリーナ以外の避難所からも、相談が来るようになる。
東京都は、日本武道館等を避難所にしていたが、当時の東京都知事は、「すべて都がやる」と、災害支援のノウハウを持ったボランティアグループや有志の弁護士たちが避難所に入ることを許さなかった。
東京都の避難所にいると、必要な支援情報がまったく入らない。
避難者同士の口コミを通じて、さいたまスーパーアリーナ避難所まで相談に来る人たちが続出した。
東京都の避難所での相談活動ができない東京の心ある弁護士たち・・・
自然と、弁護士もさいたまスーパーアリーナに集まってくる。
司法修習生も、相談のサポートに参加してくれた。
最後の方では、銀行の人たちも同じ相談班に参加し、銀行協会と直接調整してくれるようになった。
さいたまスーパーアリーナ245で多かった相談で、翌日行政も動く。
そんな状態で日々の相談活動は進んでいった。
2011年4月1日から埼玉弁護士会の会長に就任された松本輝夫会長は、会長就任前の3月のうちに、さいたまスーパーアリーナ避難所の相談ブースを見に来てくれた。
別の団体で、お風呂に入ってもらうボランティアで来ていたそうで、ジャンパー姿だった。
弁護士会が動くためには、常議員会での意思決定が必要になる。
有志のボランティアの行動が先行した。
そして、松本会長の就任最初の常議員会。
埼玉弁護士会は、東日本大震災災害対策本部を立ち上げた。
そして、埼玉弁護士会として、相談担当者をさいたまスーパーアリーナ避難所に派遣してくれることとなった。
埼玉弁護士会東日本大震災災害対策本部では、僕を事務局長にという意見もあったらしいが、
岡本には、そんな肩書きを与えて事務に忙殺させるよりも、現場で、自由に動けるようにしてやれ
と言ってくださった常議員の先生がいたそうで、僕は、東日本大震災災害本部事務局次長の肩書きをつけてもらった。
ちなみに、事務局長となったのは、僕とはツーカーの関係(一番一緒に飲んでた弁護士)だった川越支部の先輩弁護士だった。
ちなみに、この時点では、まだ僕は災害対策本部の会議には出たことは無かった。
事件は、会議室でなく、現場で起きてるのだ( ・ω・)
さいたまスーパーアリーナ避難所で活動していた頃は、朝からずっと毎日、さいたまスーパーアリーナ避難所に行き、夜は、接見。
夕飯は、ボランティア本部で食料班(たしか、JCの人たち)から、余ったお弁当をもらって、停電の中、非常用のランタンの明かりで、妻と二人、冷めたお弁当を食べていたように思う。
後から聞いた話だと、法テラスでは、僕が法テラス法律事務所にまったく出勤せずに、被災者支援活動をしているのが、無断欠勤なのではないかと問題にもなっていたと聞く。
しかし、同じ法テラス川越法律事務所にいた当時の他のスタ弁が、法テラス本部に、毎日、僕の避難所での活動について報告書を作って報告してくれていたらしい。
そのおかげで、僕は、法テラスから無断欠勤で解雇されることなく、逆に、法テラスの「本来業務」として、「災害時の被災者支援」が正式に加えられることとなっていく。
さいたまスーパーアリーナ避難所が閉鎖された後は、毎日、埼玉県加須市(旧騎西町)の旧騎西高校避難所に通った。
旧騎西高校は、原発事故の避難区域 双葉町の役場も避難してきていた避難所だった。
旧騎西町は、電車は通っておらず、毎日、パッソで、鴻巣駅で何人か乗せて旧騎西高校と行き来する日々だった。
さいたまスーパーアリーナ避難所が閉鎖された後は、僕は、埼玉弁護士会の災害対策本部の会議にも出るようになった。
毎晩、松本会長や当時の副会長の先生方とお会いしていたように思う。
弁護士会の執行部(会長・副会長)は、とても忙しく、もちろん、弁護士会会務の他の様々な活動にも参加しておられたはず。
しかし、2011年度に関しては、東日本大震災災害対策本部には、毎晩、執行部の先生方が時間を割いてくださっていた。
僕が執行部に入った2020年度のコロナ対策も同じか・・・
2011年の5月くらいだったか、弁護士会の呼びかけで、埼玉県、各市町村、各士業団体、ボランティアグループや生協等で集まって被災者支援について話し合う
震災対策協議会
というものも月1回開催するようになった。
僕は、弁護士会災害対策本部事務局次長として、事務局長だった先生と一緒に、その司会をしていた。
2年間で開催しなくなってしまったが、今思うと、あの枠組みを、もっとうまく制度化していければ、いざ災害が起こったときに、いろいろできたのかなと、もったいなく思うこともある。
まあ、士業団体の連携した相談体制という意味では、埼玉で行っているスクラム相談があるから、これに行政を巻き込んでしまえば、同じようなことができるかもだが( ・ω・)
2011年の夏頃には、埼玉県内各地で、原発被害賠償の説明会・相談会を行うようになった。
僕は、いろんな会場での説明会で、講師をした。
やがて、事件当事者にはなれない弁護士会の相談ではなく、原発被害者の人たちの代理人として、東電に請求していくための活動が必要になってくる。
弁護士会は、すべての弁護士が加入する「強制加入団体」。
一方当事者の味方をする活動はできない。
そこで、
原発被害救済弁護団(埼玉)
が結成されることとなる。
弁護団会議の中で、弁護団の方針を決めていった。
そのうちの弁護士費用について。
法テラスの法律扶助を利用するか、利用せずに、弁護団独自の基準を作るか。
結論は、弁護団独自の基準でやる。
法テラスの法律扶助は利用しない。
着手金・実費の1万円(消費税込み)
報酬は、得られた賠償金の5%。
通常の弁護士費用基準とはまったく違う、
法テラスの法律扶助よりも原発被害者の負担とならない費用基準を弁護団で作った。
法テラスのスタッフ弁護士は、刑事の国選事件と民事の法律扶助事件しか受けられない。
法テラスの法律扶助を弁護団が使わないということは、法テラスのスタッフ弁護士は、弁護団の事件を担当できないということになる。
僕自身は、法テラスの法律扶助を「使わない」べきだという意見だった。
そして、この意見を言った時点で、
僕は、法テラスのスタッフ弁護士を辞めることを決意していた。
(次回に続く・・・)
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