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これまで歩んできた道⑥弁護士1年生編

#自己紹介

こんにちは。
アレテーを求めて~
今日もトコトコ( ・ω・)
弁護士の岡本卓大です


自己紹介として、2023年にアメブロで公開した
これまで歩んできた道
シリーズを再編集したものを投稿します( ・ω・)

簡単に私の略歴も書いておきます。

(略歴)
1976年11月15日 兵庫県三原郡南淡町(現在の南あわじ市)で生まれる。
1995年3月 兵庫県立三原高等学校卒業
1996年4月 白鴎大学法学部入学
2000年3月 白鴎大学法学部卒業
2004年 司法試験(旧司法試験)合格
2005年4月 司法修習(実務修習地・さいたま)
2006年10月 弁護士登録
2006年10月~2007年9月 埼玉総合法律事務所(法テラス・スタッフ弁護士養成)
2007年10月~2011年12月 法テラス川越法律事務所(法テラス・2期生スタッフ弁護士)
2012年1月~2014年6月 埼玉総合法律事務所(経費分担弁護士)2014年7月~2022年12月 あさか総合法律事務所代表弁護士
2022年12月 アレテー法律事務所に名称変更

(弁護士会会務)
2011年度~2012年度 埼玉弁護士会東日本大震災対策本部事務局次長
2014年度~2016年度 埼玉弁護士会子どもの権利委員会委員長
2017年度~2019年度 埼玉弁護士会憲法改正問題対策本部事務局長
2020年度 埼玉弁護士会副会長

(前回のお話)

これまで歩んできた道⑥弁護士1年生編


2006年10月。司法修習を無事に終え、弁護士になった。

最初のスタートは、埼玉総合法律事務所。

僕が弁護士になったのと、ほぼ同時に始まった法テラス(日本司法支援センター)のスタッフ弁護士になるための養成のため、一年間、埼玉総合法律事務所で働かせてもらうことになる。


【弁護士バッジ】

写真のように、現在では、すっかり金メッキが剥がれ、「地銀」が出ている弁護士バッジ。

新人で、弁護士バッジを受け取ったときは、桐箱に入り、「金色」(弁護士バッジは銀でできており、金メッキがされている。)だった。

これを始めてつけたときは、

弁護士になったんだ

と実感したものだ。


2006年10月当時は、法テラスはできたばかり。
司法修習生のときに、日弁連の司法支援センター推進本部で、法テラスの常勤弁護士(スタッフ弁護士)の候補者となるための面接があった。


面接官だった、ある先生から、二人で飲んでたときに、言われたことだが、僕を「スタッフ弁護士候補者」として合格させるかどうかは、日弁連推進本部の中で意見が割れたらしい。

「あいつはバカじゃないのか?」

という採用反対意見と

「あいつは、本当にすごい逸材かも知れない!」

という採用賛成意見。

結果は、採用となったが、なんとなく、その日弁連推進本部での議論は想像できる(笑)

そして、採用反対の意見だった人たちの方が、日弁連という組織では出世(?)してるのだろうなということも・・・


だって、

自分の弁護士としての経験を高めたいとか、困っている人の役に立ちたいとか、言う人はたくさんいただろうけど、日弁連のお偉い先生方を前にして、


弁護士にたどり着けない人を無くすため

俺が日本の司法を変えてやる!


なんて、面接で言う人は、いなかっただろうから。

でも、それが、

法テラスのスタッフ弁護士の持つべき心意気だと僕個人は思うけどね( ・ω・)


さて、弁護士になって、初日。埼玉総合法律事務所へ。


埼玉総合法律事務所は、当時埼玉最大の僕を含めて16名の弁護士がいた。昨年2022年に他界された宮澤洋夫先生が始められた法律事務所で、埼玉の多くの弁護団会議が行われる「大会議室」もある事務所だ。

今の事務所の場所から、少しだけ離れた現在も、「なんやかんや」という弁護士御用達の居酒屋さんがあるビルが当時は、「埼玉総合ビル」だった。(東日本大震災後、現在の事務所に移転。)

当時は、3階、5階、6階が各弁護士、事務局のグループ(4階は大会議室、1階は受付、2階は相談室)になっていて、僕は、埼玉総合の5階に席を置かせてもらっていた。
そこに、司法修習生時代と同じ、武蔵浦和駅近くの安アパートから通った。

初日。当時の埼玉総合のボス格の先生(現在は、埼玉総合からは出て、ご隠居されている。)が、次々に僕のスケジュールを入れていく。

当時は、僕も30歳。
恋人(現在の妻)とのデートだってしたい。
土日祝日も予定が埋められていく。

それを見て、ちょっと、嫌な顔をしてしまったのだろう。
僕の表情に気づいたボス弁が、ニコッと笑って一言。

「岡本さん。これが弁護士だよ。」


あのボス弁の笑顔と一言は、今も鮮明に覚えている。


埼玉総合法律事務所は、事務所の入り口にある弁護士の名前も、修習期(=弁護士経験の長さ)に関係無く、名前の五十音順に並んでいた。

「弁護士」は、「ベテランも新人も対等」(バッジをつけたら一人前)。

という創始者である宮澤先生のお考えからだ。


新人の頃は、いろんな先輩弁護士の事件を一緒にやらせていただいた。
同じフロアの弁護士の受ける事件の影響か、労働事件が多かったかな。

初めての刑事事件も先輩弁護士と組んでの私選弁護事件。

示談して、起訴猶予(不起訴)になって、刑事事件の後、そのまま、解雇された職場相手に労働審判もやった。


初めて一人で担当した債務整理事件以外の事件はDV離婚の事件だった。

相手方本人だけでなく、代理人の弁護士も、調停の席で大騒ぎして、いろんな弁護士がいるもんだなと思った記憶。


初めての国選弁護事件は、借金が犯行の原因になった財産犯の事件で、親族の協力で、被害金額全額の弁償をして執行猶予付判決をもらい、その後、事件の原因になった借金を債務整理事件として受けて、被害弁償にかかった金額より、ずっと多い過払い金を取り戻して、被害弁償を立て替えてくれた親族へもお金を返すことができた。

初めての被疑者国選事件(当時は、被疑者国選は始まったばかりで、現在の裁判員裁判対象事件のような重大事件のみ)は、今でも記憶している。

被疑者から最初に聞かれた質問

「弁護士さんを私選にしたら、がんばってもらえますか?」

話を聞いてみると、その被疑者は、10代の頃、国選弁護人(当時は、被疑者国選は無かったので、援助制度での弁護人?)は、ぜんぜん接見にも来てくれず、親がお金を払って、その弁護士を「私選弁護人」にした途端に、頻繁に接見に来るようになったらしい。
少年審判を受けて保護観察になって家に帰れたが、彼は、「世の中金なんだな・・・」と感じてしまったらしい。

僕は、彼に、

「国選だろうが、私選だろうが、いくらもらおうが、誰から金もらおうが、刑事弁護人がやることは同じ。被疑者である君のために全力でやる。」

と答えた。

罪名的にも、執行猶予はつけられない重大事件だったけど、被疑者の恋人が裁判官宛に書いたお手紙を、裁判所に証拠提出したり、被害弁償できる相手には、弁償を試みたり、勾留取消や保釈を求めたり、とにかくいろいろやったように思う。

あさか総合法律事務所をやっていた頃、出所して何年も経っているであろうその彼から、「会社起こしたんですよ。」と相談の連絡を受けたときは、とてもうれしかった。

自分が必死に弁護した人が必死に更生して、まっとうな社会で生きていてくれることは、本当にうれしい。

同時に、少年時代に彼を弁護した弁護士が、金のためではなく、本当に彼を立ち直らせるための付添人活動をしていたら、彼は、刑務所に行く必要も無かったんじゃないかと思ったりもする。

そんな弁護士一年生の生活を終えて、2007年10月1日から、法テラス川越にスタッフ弁護士として赴任することになる。

この話は、また次回に。


(次回に続く・・・)

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