映画感想「風立ちぬ」
映画『風立ちぬ』、公開当時に観た時は、自分にうまくハマらなかった。だが、最近、この映画の感想を読む機会があり、改めて鑑賞してみた。

これは反戦映画にあらず

上記に引用したのは、宮崎駿が書いた『風立ちぬ』の企画書の一部である。
大雑把に要約すれば、『風立ちぬ』は戦争の悲惨さを描く映画ではなく、戦意を高揚させるための映画でもなく、一人の青年の夢と夢を追いかける狂気を描いた映画だという。堀越二郎という創造者の、成功と挫折、それでも夢から離れられない狂気。
映画『風立ちぬ』は、ある種の芸術家の、創造と苦悩の話だと言い切っていいだろう。

堀越二郎と宮崎駿の飛行機愛と美意識
堀越二郎は設計家として飛行機をつくり
宮崎駿はアニメ作家として飛行機を描く
どちらも、美しい飛行機を空に飛ばすことには、変わりがない。
宮崎駿は、堀越二郎と同様、少年の頃から飛行機が好きだったらしい。

二郎は鯖の骨を見て、飛行機を連想する。鯖の骨のような曲線を沿って、風は流れ、翼は空を切り、飛行機は空を飛ぶ。
二郎が理想の飛行機を思い浮かべた時、エンジンなどの無粋なものは映らない。ただただ吹く風に乗り、空を切る飛行機の姿がある。
荒々しさのない。実に上品な美しさ。
エリートとは
このnoteのいちばん始めに、筆者は公開当時、この映画があまり肌に合わなかったと述べた。
今回、改めて鑑賞して、その理由に気づいた。

堀越二郎は、実に“貴族”的な男性だったことだ。
真の貴族性とは、他人との隔絶感にある。
自分と他者を、同じ土俵に置かない。同じ次元に置かない。ということ。
二郎は紳士的な男だ。いじめられている弱者がいれば助け、困っている人がいれば救いの手を差し伸べ、学業や仕事で誰かに嫉妬することも臆することもない。
真の貴族というものは、相手を同レベルに扱わない。同じステージに立たない。ゆえに、自分の正しさを何に邪魔されることもなく実行するし、誰かへの感情に重みはつかない。良くも悪くも。
表面的には「良い青年」である堀越二郎に、無意識ながら感じた“他人事”感が、私は気に入らなかったらしい。
数年経ってみて、その貴族性は相変わらず気に入らないが、受け入れられない程ではない。それはきっと、未熟ながらも、私も堀越二郎と同じ創作の道を志したからだろう。

卓越した創造者ーー芸術家には、一種の貴族性が備わっているものだ。
これは、“美しさ”にもつながる。貴族的な人というのは、その立ち居振る舞いからして、美しいのだから。
「生きねば。」

上記に引用したのは、『風立ちぬ』のプロダクションノートの一部だ。
映画『風立ちぬ』のテーマである「生きねば。」。
このようなフレーズを聞くと、庶民である私はまず泥臭さを思い浮かべる。今地面を這いつくばっているとしても、それでも生を積み重ねていく、そんな底意地根性な印象。
けれども、映画『風立ちぬ』の「生きねば。」は、綺麗だ。哀しく、美しい。

薄幸の美しさを持つ里見菜穂子をキーにして、映画『風立ちぬ』は生のメッセージ、素晴らしさを伝える。
生きる、というのは美しいのだろうか。
菜穂子は結局、自身の美しい姿だけを二郎に見せ、死に時の猫のように夫婦の家から消える。あとは死に向かうだけの、美しくない自分を見られたくなかったから。
二郎は何よりも“美しさ”を愛する。そんな二郎の本質、宿命を、おそらく菜穂子は誰よりも理解していた。

そう考えると、堀越二郎を主人公に、テーマ「生きねば。」を描くのは、ベストマッチなのだろう。
美しい飛行機を追い求め、夢の狂気にすら平気で飛び込む二郎は、もっとも貪欲に「生」の宿命を負っているのかもしれない。


