観客はなぜ名画にキスしたのか──サイ・トゥオンブリー事件の顛末
はじめに
ルーブル美術館は2010年に旧「ブロンズの間」の天井画をサイ・トゥオンブリーに依頼した。トゥオンブリーは人気のある現代アーティストというだけではなく、世界有数の美術館の空間そのものを任される種類の作家だった。そんな画家の作品に、ある観客は“愛情表現”としてキスをして口紅の痕を残した。それはルーブルによる依頼の3年前の出来事だった。
プラトニックな愛を示す“白い画面”

事件は2007年、フランス・アヴィニョンの美術館、コレクション・ランベールで起きた。展示されていたトゥオンブリーの三部作《Phaedrus》に、来場者サム・リンディがキスをしたのである。この作品は真っ白なキャンバス、赤い痕跡を含む白い画面、そしてテキスト要素から成る非対称な三部構成作品だ。白いキャンバスが“プラトニックな愛”を、赤に汚れた画面が“身体的な愛”を示す、プラトンの文章に反応して制作された連作とされる。そしてキスされたのは、そのうちの真っ白なキャンバスだった。
「愛の行為」は、修復できない
被告は法廷で「愛の行為だった」と語った。けれど保存修復のレベルでは、それはまったくロマンチックではない。ロサンゼルス・タイムズ によれば、修復士たちは30近い薬剤を試したが、口紅痕を除去できなかったという。
判決では、サムに100時間の社会奉仕が命じられ、作品所有者に1000ユーロ(約18万6000円)、美術館に500ユーロ(約9万3000円)、トゥオンブリー本人に象徴的な1ユーロ(約186円)の支払いが命じられた。さらに修復費用をめぐる争いは続き、最終的に1万8840ユーロ(約351万円)の支払いも命じられた。所有者側は修復費用として3万3400ユーロ(約623万円)を求め、作品価値も当時200万ユーロ級(現在レート換算で約3億7300万円)と報じられていた。つまりこの事件は、「愛の行為」などというロマンチックな話ではなく、文字どおり高額な損傷事件だった。
美術館のその後の応答
さらに現代アートらしいのは、その先である。コレクション・ランベールはこの事件がただのスキャンダルとして消費されるのに反対し、「I Don’t Kiss」 という展覧会を開催した。公式説明によれば、作家たちはトゥオンブリーへの支援を表明し、事件に応答する既存作や新作を持ち寄った。展覧会タイトルはローレンス・ウィナーの言葉に由来し、ダグラス・ゴードン、アネット・メサジェ、バーバラ・クルーガー、アンゼルム・キーファーらが参加した。美術館は傷を受けた作品を守るだけでなく、その事件そのものを展示へと回収したのである。現代アートは、ときに損壊すらも文脈へ組み込んでしまう。
おわりに
白い画面は観客が書き足すための余白ではなかった。そこに自分の感情を書き足した瞬間、愛は痕跡になり、痕跡は修復不能に近い損傷になり、損傷は法廷で賠償金に変わった。トゥオンブリーの白い画面は、誰かの情熱を受け止める余白ではなく、触れてはいけないほど完成された白だったのである。
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