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第7回 平和教育再考_アクィナスが整理した戦争をめぐる倫理的条件

戦争は悪である。
これは多くの人が共有する前提である。
しかし、現実の世界には侵略や暴力があり、無辜の民が殺されることがある。
だからこそ、ただ理想だけを語っていてよいのか。
この苦しい問いから、正戦論の歴史は始まっている。

その問いを、アウグスティヌスよりもう少しはっきりと条件の形で言葉にした人が、トマス・アクィナスである。
アクィナスは1224/25年ごろ、イタリアのロッカセッカ付近に生まれ、ドミニコ会士となり、パリ大学などで教え、1274年に亡くなった。
主著『神学大全』は1260年代から1273年まで書き進められた大著であり、その中に有名な「戦争について」の問いが含まれている。

ここで重要なのは、アクィナスが戦争を、国家の技術や軍事の技法としてではなく、キリスト教倫理の一部として考えていることである。
実際、『神学大全』で戦争が論じられるのは、「愛徳(charity)」とそれに反する諸悪徳を扱う流れの中である。
研究でも、アクィナスの戦争論は、愛徳・平和・不和・争いといった道徳的主題の連なりの中に置かれていると説明されている。
つまり彼にとって戦争は、最初から「愛や平和と無関係な別世界の問題」ではなかった。
アクィナスにとって、正しい戦争は平和回復を目的とする点で、平和の問題から切り離されていなかった。
彼は、戦争をまず愛と平和の問題として見ていた。
そこに、彼の特徴がある。

アクィナスの有名な定式化は、『神学大全』第二部第二編第40問題第1項にある。
そこで彼は、正しい戦争には三つが必要だと述べている。

第一に、正当な権威である。
私人が勝手に戦争を始めてはならない。
戦争を始めるのは、共同体の善を預かる公的権威でなければならない。
個人には上位の権威に訴える道があるのであって、自分で勝手に戦争を起こす権限はない、というわけである。
現代的に引きつければ、この議論は、テロ組織等の非国家主体による私的暴力をどう見るかという問題にも示唆を与える。

第二に、正当な理由である。
アクィナスは、相手側に何らかの「咎」や「不正」があること、つまり戦争に踏み切るだけの理由が必要だとする。
彼はここでアウグスティヌスを引きながら、不当に奪ったものを返さないとか、犯した不正を償わない都市や国家に対する戦争を語っている。
この点で、アクィナスの正戦論は、いわゆる「自衛権」だけに限定されるものではなく、不正への是正や懲罰の要素を含んでいるとも考えられる。

第三に、正しい意図である。
たとえ正当な権威があり、正当な理由があったとしても、意図が歪んでいれば、その戦争は不正である。
アクィナスは、戦争は善を促進し、悪を避けるためでなければならないと言う。
逆に、残虐さ、復讐心、私憤、支配欲のようなものが動機なら、それは正しい戦争ではない。

この三つは、後の正戦論の骨格になった。
ただし、ここで注意も必要である。
現代の教科書では、正戦論の条件として「最後の手段」「成功の合理的見込み」「比例性」なども並ぶことが多い。
しかし、アクィナス自身が明示的に箇条書きしたのは、この三つである。
後代の神学者や法学者が、それをさらに展開し、精密にしていったのであって、現代の正戦論のチェックリストがそのままアクィナスにあるわけではない。
ただし、アクィナスによって、戦争は理性によって評価可能なものとして、より明確に条件づけられるようになったとは言えるだろう。

まず、彼はアウグスティヌスよりも明確に戦争における倫理を整理した。
アウグスティヌスは、平和、秩序、愛、権威の問題の中で戦争を論じた。
アクィナスはそれを、少なくとも「権威」「理由」「意図」という条件にまで言語化し整理した。
この意味で彼は、現実の世界で生じる戦争を念頭に置いた苦しい問いを、よりはっきりした倫理的基準へと整えた人であると言える。

次に、彼は戦争を愛徳の文脈から切り離していない。
ここが私にはとても重要に思える。
戦争を考えるとは、暴力を肯定することではない。
むしろ、平和や隣人愛を本気で考えるからこそ、現実の暴力にどう向き合うかを問わざるをえない。
アクィナスの戦争論が「愛徳」の流れの中に置かれていること自体、そのことをよく示している。

さらに、彼は戦争の問題を、単に開戦理由だけで終わらせていない。
同じ第40問題の中で、聖職者は戦ってよいか、待ち伏せのような戦術は許されるか、祝祭日に戦ってよいかといったことまで論じている。
つまり彼は、戦争を一つの道徳的問題として、役割、方法、場面まで含めて考えようとしていた。
たとえば聖職者については、共同体防衛の重要性を認めつつも、彼らの務めは祭壇奉仕と祈りにあり、本来的に自ら血を流す役目ではないとする。
待ち伏せについては、すべてを敵に知らせる義務はないから、それ自体は不正ではないとする。
祝祭日についても、共同体の安全のために必要なら戦うことがありうるとする。
こうした議論からもわかるように、アクィナスは戦争を抽象的理念だけでなく、現実の役割と行為の問題として考えていた。

私は、ここに平和教育への大きな示唆があると思う。

今の平和教育は、しばしば「戦争反対」というところで止まる。
けれどアクィナスは、そこでは止まらない。
平和を願うからこそ、誰が武力を決定しているのか、どんな理由でそれが行われるのか、どんな意図がそこにあるのかを問う。
つまり、平和を守るためには、立場や思想の違いを超えて、戦争を分析する知性が必要だと考えているのである。

この点で、アクィナスは現実逃避をしていない。
戦争は悪である。
だが、悪であるからこそ、どこに線を引くべきかを厳しく考えなければならない。
この構えは、現代の平和教育にも必要だと思う。
例えば、被爆者の体験を聞くことは、平和教育のために有益である。
しかしその先を考えることこそ、将来の戦争や行き過ぎた手段を防ぐためにも重要だ。
仮に原爆投下が「より早い戦争終結のため」という目的を掲げていたとしても、その方法が正当だったのか、不正ならばいかなる点で不正なのかという議論が可能になる。
たとえ正しい目的が主張されたとしても、戦術の観点、あるいは戦闘員・非戦闘員を区別しない方法という観点で、不正であると評価することができ、戦争終結のための別の方法を論じることができるようになるからだ。

これらの議論は、戦争を正当化するためではなく、たとえば「正戦論の枠組みで考えると、ある介入や攻撃をどのように評価できるか」という問いを立て、立場の異なる人々でも、一定の共通土台の上で議論できるようになる。
これが重要だ。

ただし同時に、アクィナスの議論は、まだ神学の内部にある。
彼は国家間の法秩序を近代的な意味で論じているわけではない。
あくまで、キリスト教的徳と秩序の中で、戦争の条件を考えている。
この点が、次に出てくるグロティウスとの大きな違いになる。

アウグスティヌスが、平和を願う者がなお現実の暴力とどう向き合うかを考えた人だとすれば、アクィナスは、その問いをより明確な条件へ整理した人だった。
そしてグロティウスは、その伝統をさらに押し進めて、神学の枠を超え、国家どうしの法の問題として言葉にしていく人である。

次回は、そのグロティウスを見てみたい。
戦争は、どのように「神学上の問い」から「国際法上の問い」へと変わっていったのか。
そこに近代の大きな転換がある。

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