『愛猫がくれた「魔法」の言葉 —— 捨て猫との20年が私をTEDxの舞台へ導くまで』第8話
『右手の約束 ―元野犬エマが教えてくれたこと―』
「もう、犬は飼わない」
ベルを亡くしたあの日、母とそう誓い合ったはずだった。
けれど、ぽっかりと空いた朝の散歩時間は、あまりに静かすぎて、私たちは寂しさに耐えかねていた。
気づけば、奈良にある
「ピースワンコ・ジャパン」の譲渡センターに足を運んでいた。
新しい家族を探す私たちの前には、一匹の大きな犬
くらのすけ君がいた。
フリースペースで、犬たちにおやつをあげていた時のことだ。
「……あの、すみません。普段、このようなご案内はしないのですが」
スタッフさんが困惑したような、でもどこか驚いたような声で私の手元を指した。
「お姉さんの右手に……」
視線を落とすと、そこには、くらのすけ君よりもずっと小柄な茶色のワンコがいた。
彼女はガタガタと全身を震わせながら、私の右手に、ぎゅっと自分の前足を絡ませていたのだ。
それが、私たちと彼女の出会いだった。
推定3歳の雑種の女の子。
細身でしなやかな体つきをしているが、その瞳には「怖い」という感情が張り付いていた。
もともとの名前は「パンテーン」。
けれど、うちは美容室だ。
「シャンプーの名前と同じじゃん!」
思わず笑ってしまい、新しい名前を考えた。
大好きな漫画『約束のネバーランド』の主人公から名をもらい、「エマ」と名付けた。
過酷な運命の中でも、明るく元気に未来を切り拓く彼女のようになってほしい。
そんな願いを込めて。


エマとの生活は、試行錯誤の連続だった。
元野犬だった彼女にとって、人間が作り出した世界は恐怖で満ちていた。車のエンジン音、工事の作業音、道ゆく人々。
怖くて動けなくなる彼女を見て、私は学んだ。
「こちらのペースに合わせるのではなく、彼女の歩幅に寄り添うこと」
が、何より大切なのだと。
ただ、エマには特別な才能があった。
人間は怖くても、犬のことは大好きなのだ。
どんなに気難しい犬と会っても、エマが近づけば不思議とみんな心を開いてしまう。
「エマちゃんは、本当に友達作りが上手ね」
周囲も驚くほどの、コミュニケーションの天才だった。
もう一つ、彼女を変えたのは「焼き芋」だ。
普段は安心できるクレートの中に引きこもっているエマだが、私や母が焼き芋を買って帰ると、鼻をヒクヒクさせて、驚くべき速さで飛び出してくる。
あの臆病な姿はどこへやら、食欲には勝てない姿が愛おしくてたまらなかった。
焼き芋が大好物のエマに、母の美容室で働くパートさんも焼き芋を差し入れしてくれることもあった。
あの日、私の右手を掴んだ震える前足。
今はその足で、数え切れないほどの友達を作り、
毎日力強く地面を蹴って散歩に出かける。
怖いものはまだたくさんあるけれど、それ以上に素敵な才能を持っているエマ。彼女のペースで刻む足音を聞きながら、私たちは今日も一緒に歩いている。

《第9話》
