「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(三)
「そっか、船か! 確かにそんなこと話したなぁ。もしこのまま進んでも渡れそうな橋がなけりゃ、どうにかその船に乗せてもらうっきゃないよな」
ドルジェが語った馬泉河上流の様子を、オトは良嗣に次いで思い返していた。鋭利な渓谷と無惨にも落ちた吊り橋を前にして、憮然としながら小石を蹴っていた足が止まる。僅かに見えた光明に、オトはすっかり機嫌を取り直しつつあった。
「上流まで行けば、まるっきり景色が変わるってんだろ。河が湖みたいに広がってて船が浮かんでるなんて、想像つかないぜ」
「ああ。だが、ドルジェは嘘など吐いていなかったのだろう」
「だな。あいつ、ばか正直なやつだったからな」
「純粋だったと言ってやれ」
「単純だっただけかもしれないけどな」
ごく当たり前のように良嗣は問い掛け、オトは答えた。ドルジェの声に嘘偽りは混じっていなかったと、オトの耳は確かに悟っていた。
その刹那、はたと二人は気付いた。
「……うん。やっぱり、ばか正直なやつだった」
「……そうだったな」
いつしか二人の中で、ドルジェは過ぎ去りし出来事の一部と化してしまった。自ずと口から漏れた言葉が、その事実を物語っていた。
二人は無言で谷底を覗き込み、水面を眺めた。小石に驚いて飛び跳ねた魚はすっかり姿を隠しており、長き年月に渡って岩場を削り取った雪解け水が、とめどなく流れ続けるばかりだった。
流れた水が遡ることなど、決してありはしない。ごく当たり前に存在する自然の摂理と、遥かなる霊峰を目指す旅路に差異はない。言葉に出さずとも、二人の胸中は重なり合っていた。
無言を貫いたまま、良嗣はオトに手を差し出した。合図はそれだけで十分だった。
「何だ、もう行くのか」
「ああ。どれ程歩けば辿り着くのかも知れぬ場所だ。いつまでも悠長に立ち止まっていられるものか」
「……そうだよな、行かなきゃな」
岩肌のように硬い掌を強く握ったオトは、するりと腕を伝って器用に駆け登り、左肩の上に腰を据えた。そして、良嗣は再びヤクの背に跨り、黒く厚い毛皮に包まれた肩を叩いた。
大地の感触を確かめるように、ヤクは静かに歩き出す。灰のような白砂に、一つ、また一つと蹄の跡が刻みついていく。
二人の視線の先に流れる無機質な高原の景色は、当分の間様変わりしそうになかった。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
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