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「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と旅人」(六/終)

前回「迦陵頻伽かりょうびんがと旅人」(五)


「御礼が済んでいませんでしたね。……身元もわからぬ骸に慈悲を掛けて下さって、本当にありがとうございました」

 ドルジェは赤くなった目頭と鼻元を拭い、良嗣よしつぐとオトの前に改めて向き直った。そして合掌を頭上に掲げ、そのまま全身を大地に投げ伏した。五体投地──仏や出家者に対する最上級の帰依の姿は、皇帝に対する大仰な拝礼に似ていた。

「「……頭を上げてくれ。むしろ、勝手な真似をして悪かった」」

 良嗣の発声から少し遅れて、流暢な吐蕃語とばんごが重なっていく。出会いから丸二日が経ち、オトの通訳を介した意思疎通はごく自然に行われるようになった。
 今は・・一介の旅人に過ぎない自分が崇め奉られるかのような低頭を受けることに、良嗣もオトも我慢がならなかった。痺れを切らした良嗣に肩を叩かれるまで、ドルジェは土の付いた額を起こそうとしなかった。

「「兄──ティルブと言ったな。どうする、連れ帰って・・・・・改めて供養するのか」」
「「いえ……。僕と出会う前、既に弔って下さったのでしょう。それだけで充分です。もう墓標だってあります。兄が眠る場所はここです」」

 物語られた供養の経緯に偽りはないと、ドルジェは信じて疑わなかった。父を殺めた兄を許していないドルジェにとっても、素性も知れぬ骸に捧げられた二人の慈悲は、自らの五体を投げ打つに値する善業に他ならなかった。
 一呼吸置くと、ドルジェは懐から振りの小刀を取り出し、ゆっくりと良嗣の元に差し出した。

「「よろしければ、受け取っていただけませんか」」

 高原の大地に還り行く骸とドルジェの関係を悟る発端となった小刀を、良嗣は再び手に取って眺め見た。一尺程の刃を納める銀色の鞘には、幾重にも渡ったうねるような紋様と吐蕃文字が刻まれている。鞘から引き抜かれた白銀の刀身には、一片の刃こぼれも血脂の錆も存在しない。
 幾度見てもその容貌は、傍らで眠る骸が死してもなお携え、今は墓標代わりとなった小刀と双子のように瓜二つだった。ドルジェと相違わぬ容姿だったはずの在りし日の骸の姿に、良嗣は思いを巡らせた。

「「父から授かった守り刀だろう。易々と貰い受ける訳にはいかない」」

 断りの文句を二人分添えて突き返された小刀を、ドルジェは断固として受け取ろうとしなかった。良嗣に負けずとも劣らない強情さを目の当たりにし、オトは僅かに眉間の皺を強めた。

「「もし事が済んだら・・・・・・、いずれ手放そうと思っていた品です。……僕はこの刀で兄を殺めようとしました。一度でも心を起こした以上、もう持つには相応しくありません」」

 過ちを懺悔さんげした唇は固く一文字に結ばれ、微かに震えていた。同じように揺らぐドルジェの指先が、鞘の表面に彫られた刻印を丁寧になぞる。

「「『オン・マニ・ペメ・フン』……。観音かんのん様の御加護が込められた六字真言ろくじしんごんです。そして、この下に刻まれた紋様は海の水面で揺れる波。酷く荒れた海からも衆生しゅじょうを守る、観音様の加持力かじりきを表しています。……お二人の巡礼の旅が、どうか平穏無事でありますように」」

 寂寥感混じりの言葉だが、決して躊躇や後悔は込められていない。声色から確固たる意思を汲み取ったオトは良嗣の瞳を捉え、強くうなずいた。

「「約束しよう。絶対にこの刀を血で汚させない」」

 握り締められた手に一層の力が入り、冷え切っていた金属が徐々に人肌並みの熱を帯び始めた。誓いの重みを噛み締めるように、良嗣は慎重な手付きで小刀を腰帯ようたいに差し込んだ。
 その傍らで、オトの視線は小刀の行方を追い掛けていた。見開かれたつぶらな瞳が、鞘の刻印をまじまじと凝視する。

「観音……。海……。」
「……どうかされましたか?」
「あのさ、それ・・なら多分知ってるぜ。こっちの言葉・・・・・・じゃないし、ほんのちょこっとだけどな」

 幼い少女らしい得意気な顔をドルジェに向けると、オトはそっと瞳を閉じ、ふらふらと軽く肩を揺らして全身の力を抜いた。青草の香りが混じる冷えた空気を吸い込み、細く小さな身体中を満たしていく。
 やがて、凛として澄み切った声が、高原の風に乗ってふわりと流れていった。

或漂流巨海わくひょうるこかい
 龍魚諸鬼難りゅうぎょしょきなん
 念彼観音力ねんびかんのんりき
  波浪不能没はろうふのうもつ

 法華経ほけきょう普門品偈ふもんぼんげの一説を、オトは呉音ごおんそらんじた。声は何者にも邪魔されず、ゆらめく波長となって地平の彼方まで広がっていく。
 声に長けた種族たる迦陵頻伽としての一面を覗かせる度、良嗣は息を呑む。オトが単なる唄好きの少女ではなく、人ならざる者だと思い知らされるためだ。普段は衆目に晒さぬよう覆い隠している背の両翼が、外套がいとう越しに透けて見える錯覚さえ抱いてしまう。
 片や、オトのたえなる声と素性を知らないドルジェは、陶然としながら感嘆の声を漏らした。

「あ……」

 声質と言語こそ異なれども、老僧の声明しょうみょうが発する荘厳そうごんささえ漂わせるオトの読経は、双子の兄の死によって乱れた心を安楽へといざなった。何かにいだかれて虚空を漂う感覚が、疲弊したその身を優しく包み込む。
 未知なる境地に、ドルジェはおのずから名を付けた。
 ギャツォ

「「……海なんて、僕たち鍛金師の人生には無関係だと信じ込んでいました。でも、兄は常々言っていたんです。そんなの寂しい話だって。牢獄みたいな山々に囲まれたラサに閉じ込められたまま一生を終えたくないって。……あいつ、逃げる宛なんかないくせに、どこに向かおうとしてたのか。どこにも行く先がないのなら、ラサに住む誰もが見たことのない海を、せめて一度でも見たかったんじゃないのかって……。好き勝手に振る舞ってばかりで、外の世界への憧れを隠そうともしない兄の生き方が、僕はずっと羨ましかったのかもしれません」」

 ドルジェは目を伏せ、物言わぬ兄の姿を見据えた。骸は依然として、なすがまま風に吹きさらされていた。
 良嗣は肯定も否定もせず、真一文字に口をつぐんだ。知り得ようのない亡者の遺志を代弁することも、安易に生温い慰めの言葉を掛けるつもりもなかった。
 顎に拳を当てながら思案を続ける頭の中には、ドルジェが知り得ない本物の海があった。時に優しく時に猛々しい、たとえ振り返ろうとも二度と相見あいまみえない壮大な景色が、蓋をしていた感情と共に蘇っていく。
 ──償いの責を果たす時は今だ。
 記憶の中の海を前にした良嗣の決心は、思考の荒波に呑まれても揺らがなかった。

「……また一言一句、同じように伝えてくれないか」
「はぁ? 今更どうした、さっきからずっとやってるだろ」
「……そうだったな、頼んだぞ」

 良嗣は普段以上に神妙な面持ちで、ゆっくりと重い口を開いた。オトも立て続けに吐蕃語を重ねる。

「「聞いてくれ。実は、俺たちは海を──」ば、ばか! 何言ってんだ!」
俺の・・身の上話をするだけだ。続けてくれ」
「ったく、あんまし余計なこと喋んなよ……「俺たちは海を越えて来た。お前と出会った湖などとは比較にならない広さの大海原を渡り、何処までも果ての見えない西域の砂漠を踏み越えて、今この大地に立っている。幾分か寄道もして、出立しゅったつから三年も経ってしまったが」」

 信じられない、の一語を顔に張り付け、ドルジェは再び良嗣を見上げた。仏頂面と頭二つ程も差のある巨躯に気圧けおされ、半開きの口は返す言葉を失った。傍らで通訳を務めるオトの表情も良嗣と同様に、硬く真剣な面持ちでいる。二人は決して冗談を吐いていないと、ドルジェは認めざるを得なかった。

「「俺たちが渡った海は遥か東方だ。命ある限り、歩みを止めなければ必ず辿り着く。見たければ見ればいい。行きたければ行けばいい。誰もお前の意思を妨げない」」

 宣言は激励であると同時に、兄と思わしき人物の死を告げ、ドルジェの生きる目的を奪う選択を採った良嗣の滅罪めつざいでもあった。
 ──たとえ一つの目的を失おうと、次の目的が見つからない理由にはならない。
 ──もしも目の前のデカブツみたいに、新しい生き甲斐を見つけられたなら──。
 眩い輝きを放っていた月光の下、すれ違いながら良嗣とオトが抱いた想いは、遂に一つに交わった。

「「海……。お二人のように、僕も……」」
「「ああ。父の弔いを済ませたなら、後は好きにするといい」おい、もし海まで出たけりゃ覚悟しとけよ。絶っ対吐くからな!」

 縋るような言葉に、良嗣は仏頂面を崩さず首肯し、オトは冗談めかしながら歯を見せて苦笑した。正反対の仕草がドルジェにはどこか可笑しく見え、出来る限り頬を吊り上げて、少し歪で不恰好な笑みを返した。

「「……しかし、そのような遠い地まで仏法が広まっているだなんて、考えもしませんでした」」
「「三、四百年も昔に伝来したと聞いている。尊像も経典も阿闍梨あじゃりも、みな荒波に呑まれながら辿り着いたのだろう」」
「「かく言うお二人も、海を越えてまで巡礼の旅に……。益々頭が下がります」」
「「……道中の寺院を巡拝してはいるが、本当の目的は違う。このまま南下して拉薩ラサへ向かい、暫く逗留とうりゅうして支度を整えた後は、再び西へと進むつもりだ。あの山脈・・・・の頂を目指す為に」」

 厚い指先が南西の方角を示す。濃さを増しつつある橙色の空を、万年雪を身に纏った鋭い山脈が貫いている。尖塔のように一際高い頂点に、驚きで見開かれたドルジェの目は釘付けになった。

「「まさか……! チョモランマ!? あり得ない!」」

 動揺のあまり、ドルジェの口から調子外れの声が漏れ出た。
 ──チョモランマを目指した旅人の話など、誰一人として聞いた試しがない。どれだけ屈強な大男であろうと無謀が過ぎる。しかも、幼い少女まで伴うなんて──。

「チョモ……? 何だそりゃ?」
「「あの山脈の最高峰を、僕たちはそのように呼んでいます……いや、ともかく! 何故そんな無茶を! 命を棄てに行くつもりですか!」」
「「俺たちにはあの場所を──チョモランマとやらを目指す理由がある。仔細は話せないが……どうしても辿り着かなくてはならない。果ての見えない砂漠も海も越えてきた。目に見える場所なら、行けないはずはない」」
「「理由になっていません、もっと詳しく話して頂けませんか」」
「「それは……」ばか、そこで黙んなよ! なんとか言え!」

 更なる真実を語るべきか、語らざるべきか──。
 問い掛けに窮する二人の迷いを、そよぐ風が運んできた音色が払い除けた。

「……唄……」
「おぉ、ずいぶん久々だな」

 幾人もの女性の淑やかな声が混じり合い、旋律を紡ぎ出す。
 かつて陽関ようかんの関所を潜り抜けた先で、良嗣は初めて彼女たちの唄を耳にした。宮中で耳にした気品高い雅楽ともわらべたちの戯れとも異なる、未知の言語で放たれる浮世の音色とは思えぬ唄は、旅の最中に時折オトが口ずさんでいた旋律だった。
 ──西へ行きたい、唄が呼んでる。
 荒波に踊る遣唐使船の中で、オトは良嗣に懇願した。良嗣には単なる音の連なりでしかない不可思議な唄こそが、オトだけが知り得た確かで微かな道標だった。

「確かに山脈の方から聞こえるが……。やはり、あの場所・・・・なのか」
「ああ! チョモランマ……とか言ったよな、あそこのてっぺんだ!」

 ── 一番高い場所だ、間違いない!
 陽関の砂漠で唄を聴いた時も、オトは砂漠の彼方にそびえ立つ山脈の最高峰を指差し、自信に満ち溢れた声で断言していた。
 オトには手に取るように理解できた導きの唄の出処は、良嗣には皆目見当が付かなかった。それでも、良嗣はオトの言葉を信じた。地を這ってでも共に辿り着き、確かめなくてはならなかった。
 ──終着地が迦陵頻伽の舞う極楽浄土だとしたら、娘は──音子おとこはそこで待っているのだろうか?

「……お二人とも、一体何を……?」

 幻影を追うような素振そぶりを突如として見せる二人に、ドルジェは困惑を隠せなかった。目前で会話を交わす二人が身体を置き去りにし、魂だけを自分から遠ざけてしまったように思えた。

「……耳に入っていないのか」
「……そっか。やっぱりな、そうだよなぁ」

 わざとらしく悟ったように振る舞うオトの物言いからは、隠し切れない憂いが滲み出ていた。
 幾つもの土地で幾つもの出会いがあった。商人や駱駝飼い、巡礼者に禅僧、無謀にも良嗣を狙い続けた武芸者や自らを仙人を称した世捨人まで、旅路を共にした人物は数知れない。だが、彼らはいずれも一時ひとときの同行者に過ぎず、いかに心を通わせようと道を分かつ天命にあった。
 二人が唄の導きに従って西方を歩み、やがて天の頂への道を踏み出したように、旅人には誰しも向かうべき場所がある。だからこそ、旅の最中の出会いと別れは不可分となる。その無情な掟を、オトは幼心に理解していた。

「おれたちだけ・・が呼ばれてるんだ。おれたちだけ・・が行く場所なんだよ」

 同時に、オトは自分が孤独ではないと知っていた。行く手を阻む悪漢を一撃でし、熱砂に灼かれても飢えに苦しんでも弱音すら吐かない壮健な大男を、オトは心の底から頼りにしていた。口より先に身体を動かしたがる不器用さも、得体の知れぬ密航者を信じた愚直さも、双翼となって自分を導いてくれると確信していた。未知なる旅の道連れは、唯一人居さえすれば充分だった。

「……構わない、二人旅には慣れている」

 良嗣は仏頂面を少し和らげ、根拠のないオトの自信を肯定した。そして、草をんでいる犛牛ヤクに歩み寄り、あぶみに足を掛けた。ドルジェに向けた壁のような背中は、尚も黙して語らずにいた。

「ちょっと、話はまだ──」
「「日没には幾分か時間がある、僅かでも前へ進みたい」なあ、まずはウチに帰るんだろ? それならせめてラサまでは一緒に行こうぜ。こいつ全っ然喋んないからさ、退屈してたんだよなぁ」

 オトは何食わぬ顔でドルジェにうそぶくと、その身を包み隠す大きな外套を引き摺って良嗣の後を追った。そして、くらの上から差し出された柱のような太腕を器用によじ登り、我が物顔で良嗣の左肩へと腰掛けた。

「ま、待ってくださいよ! 今行きますから──」

 ドルジェは視線を骸の方へ落とし、変わり果てた兄に胸の中で最後の別れを告げようと、瞳を閉じて手を合わせた。共に生まれ、共に過ごし、共に槌を振るった十八年分の記憶が去来する。
 ──僕はお前を許さない。生涯の目標だった師匠を、僕たちの父を殺めたお前を許せるはずがない。でも、お前を供養してくれた人たちの思いを無下にする訳にはいかない。たとえ三悪道※に堕ちていたとしても、せめてもの救いがもたらされるよう、僕も祈ろう……。
 合掌を解いて目を開くと、先程までは影も形もなかった白い羽根が、手向け花のように骸の側に落ちていた。何処からか風に誘われて現れた羽根の、高原の空を支配する漆黒の禿鷲はげわしとは似付かぬ姿に、ドルジェの心は独りでに惹かれていった。
 しかし、その羽根は美しさとは無縁の姿をしていた。色は新雪のような純白とは程遠く、まだらに灰色がかった羽肢うしには幾つもの切れ込みが入っている。これ程の深手では羽ばたきさえも叶わないと想像すると、羽根の主が気の毒とさえ思えた。

「おぉーい、置いてくぞ!」

 その刹那、オトの呼び声に呼応したかのように、一片ひとひらの羽根は突風に巻き上げられて飛び去った。
 促されるまま馬の背に跨ったドルジェは、遠ざかる羽根の行方を慌てて目で追った。赤く染まった南西の空に舞い踊る羽根姿は実に優雅で、聳え立つ霊峰さえも軽々と飛び越え、やがて悠遠なる天上まで届きそうな気さえした。


「迦陵頻伽の仔と旅人」完

「迦陵頻伽の仔の祈り」へつづく

※三悪道 六道輪廻の中における三つの世界、地獄道・餓鬼道・畜生道の総称。


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