「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(五)
酉の刻※1 を過ぎてもなお、高原の空は真昼と変わらぬ藍色に染まっている。
その真下を横切る馬泉河の岸辺に座り込んだ二人は、五里※2 も離れた対岸の景色を眺めていた。二人の眼前に途方もなく広がっている荒涼とした灰色の丘陵は、決して飢えと渇きを訴えることもせず、亡者のように黙して鎮座していた。南西の彼方に聳える霊峰は丘陵の奥から顔を覗かせていたが、今の二人の視界には映らなかった。
「なぁ、今更泳いで渡ろうなんて考えんなよ。そこら中で、流れが岩に切り裂かれるような水音がしてる。冷たさに身体をやられて、引きずり込まれて足を取られたらお終いだぜ」
「わかっている」
オトの忠言に首肯した良嗣は、右手を伸ばして水に浸した。凍て付くような温度の冷水が、掌の上を走る筋の中へと染み込んでいく。全身へと伝わった鋭い痛みは、良嗣の生来の細目を更に窄めさせた。
良嗣の様子を横目に、オトは溜息を一つ落として呟いた。
「……あいつの声さ、ほんっとに気に入らなかったんだよ。最初っからおれたちを相手にするつもりなんてない、ばかにして楽しんでただけなのが丸わかりだ。それに……」
か細い声が、はたと途切れる。オトの脳裏には、漁師の青年が良嗣に投げ付けた言葉が蘇っていた。
『……全く、金持ちの道楽ってのはわかんねぇな。こんな奴、どこで幾ら出せば買えるんだ?』
重い沈黙を誤魔化そうと、オトは小石を拾い、対岸目掛けて放り投げた。小石は幾度か水面の上を跳ねた後、力なく水底へと沈んでいった。
「……最後のあれ、聞こえてたんだろ」
「かろうじて聞き取れた」
「きっと、ややこしい言葉はオマエに通じないって思ってたんだぜ。何が『金持ちの道楽』だ、ふざけやがって」
「だから、我慢ができなかったか」
「そうだよ。ごめん、悪かった」
「構わない。俺の方こそ、余計な負担を掛けさせて済まなかった」
オトでしか気付けない程度に、良嗣は少しだけ口元を緩めた。
旅の最中、良嗣がオトの為に振るった拳の数は計り知れない。そして、オトが良嗣の為に発した怒声の数も、また計り知れない。
自身を侮蔑されるよりも耐え難い屈辱に襲われたオトの心情を、三年同じ時を過ごした良嗣が理解できないはずがなかった。
「少しいいか」
「んだよ、改まって」
灰色の丘陵の狭間を貫く純白の峰に、良嗣は指を伸ばした。チョモランマは人目を避けるように、麗しい顔を覗かせている。
「俺たちが目指す地だ」
「ああ」
「河を渡らなければ辿り着けない」
「当たり前だろ」
「噂に聞いた通りだ。渡し舟も橋もないからには、漁師の船を頼るしか術がないようだ。河を伝って更に西へと進んだとしても、その先で渡れる当てがある保証はない」
「わかってるよ、そんなの」
「ならば、するべきことは一つだ」
自分の言葉さえ待たず、良嗣はオトを担いで立ち上がった。華奢な身体は軽々と宙に浮き、七尺半の巨躯の肩へと収まった。
「ばか! ちょっと待てって!」
オトの静止と大河の流れに逆らって、良嗣は漁師小屋を目指して駆け出した。太陽は未だ沈まず、空は深い藍色を湛えている。
※1 酉の刻 17時から19時。
※2 一里=約536m。 五里=約2680m。参考:新井宏「延喜式の度量衡」
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
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