「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(四)
数十日間に渡る旅の過程で、渓谷の下を流れていた馬泉河は、徐々にその様相を変えていった。
上流の集落を目指して河辺を進んでいくにつれ、三十歩※1 ほどだった河幅は約五十倍、五里※2 まで膨れ上がり、大河と呼ぶに相応しい堂々たる姿を現している。
西の氷河より来たる水筋は絶えず過ぎ行き、良嗣の目下、足元を掠めて攫いそうなほど近くを流れていく。
その澱みない軌跡に、オトの金切り声が歪な波紋を作り出した。
「待て待て待て! いくら何でも、そりゃあんまりだ!」
河のほとりに建てられた漁師小屋の土壁が微かに震えて、はらりと白い砂粒が零れ落ちる。
扉の前に立つ青年は両耳を強く塞ぎ、煉瓦色に灼けた顔を辟易とさせ、わざとらしく見せ付けた。
「あんまりだ? 冗談言うなよ。向こう岸まで片道二人で銀貨五枚。それくらい出したって、どうせ痛くも痒くもないだろ」
「あんなボロ船乗るのに、そんなに出せるわけあるか! 舐めやがって!」
オトは突き刺すような勢いで、河岸に係留された船を指差した。
人間二人がようやく乗れそうな程度の大きさしかない牛皮舟※3 は、柏槇の木組みを犛牛の皮で包んで造られている。その有様は、肉を抉り取られた生物の遺骸にも似ていた。
「へぇ、『持ってない』とは言わないんだな」
「げっ」
図星を突かれたオトは、反射的に喉元から苦い声を漏らした。
二人は奇しくも五枚の銀貨を持ち合わせていた。唐で造られた銀貨は、遠く離れた吐蕃においても高い価値を持つ。それは二人が果ての見えない旅路を続け、命を繋いでいくための、最後の頼みの綱だった。
捉え所のない振る舞いばかりする漁師の青年を注視しつつも、良嗣は返す言葉を持てなかった。氷雪に包まれた南西のチョモランマへ近付くためには、高原を東西に渡って貫くヤルツァンポの対岸へ渡る必要があった。渡れる橋も渡し船もない以上、集落で唯一人の漁師に下手に出ざるを得ない立場を、良嗣は十分に承知していた。
「……お前ら、商人ってなりにも、唯の旅人にも見えねえな。それに、どう見たって親子って柄でもねえ。デカいのは……大方ずっと東から来たんだろ、わざわざご苦労なこった」
青年の言う『ずっと東』が唐を指すと察した良嗣は、沈黙を貫いたまま頷いた。唐より遥か東、海を隔てた先の国使という身元を明かしたとて、青年の不遜な態度が変わるとは思えなかった。
一方、青年はオトに値踏みするような視線を向けていた。照り付ける太陽の熱射にも灼かれぬ純白の肌と、神秘的な輝を放つ琥珀色の瞳が、青年の好奇の目に留まる。
「お前、随分と変わった面してるな。そのくせ、妙に喋り慣れてやがる」
「はあ? そんなのどうだっていいだろ」
「口が減らねえな」
牙のように剥き出しになった八重歯を一瞥すると、青年は顎を上げ、改めて良嗣を見上げた。
「……全く、金持ちの道楽ってのはわかんねぇな。こんな奴、どこで幾ら出せば買えるんだ?」
青年の声を、強い嘲りの意思が包み込む。濁り澱んだ音調は、オトの心を蝕んだ。
「てめぇ、この野郎──!」
鉤爪に込められた耐え難い怒りが、渇いた大地を抉り取る。
「待て」
矢のような速さで青年に飛び掛かろうとしたオトを、良嗣は襟首を掴んで咄嗟に止めた。宙に浮いたオトがばたつかせた人ならざる足先は、首から下に垂れた麻の外套に隠れている。
「ばか、何すんだよ! 放せったら! 蹴っ飛ばして噛み付いてやる! 邪魔すんな!」
尚も喚き続けるオトを肩の上に担ぎ上げると、良嗣は目を伏せて頭を下げた。
「……済まない、まだ礼儀を知らぬ幼子だ。邪魔をしたな」
「おい、引き下がってどうすんだ──」
幾度も肩を叩くオトに応じることなく、良嗣は踵を返した。
大地に残された深い爪痕は、何事もなかったかのように良嗣の大足で踏み消された。
全てを見聞きしていた大河は、二人を追い立てるように東へと流れ続けていった。
※1 一歩=約1.78m。 三十歩=約54m。
※2 一里=約536m。 五里=約2680m。
参考:新井宏「延喜式の度量衡」
※3 コワ 文中の通り、ヤクの皮で造られた小舟。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
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