「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔は西へ」
● 作品のあらすじ
迦陵頻伽。極楽浄土に住まうと伝えられる、妙なる声を持つ半人半鳥の存在。
時は九世紀半ば。かつて遣唐使だった身の丈七尺半(約225cm)の大男・橿原良嗣は、遣唐使船に密航していた迦陵頻伽の少女・オトを肩に乗せ、西域に向かって唐の砂漠を踏み締めていた。不思議な唄に喚び寄せられて「西へ行きたい」と懇願する、オトの想いを叶える為に。
愛娘と死別した喪失感を抱えた良嗣と、飛べない翼を背負ったオトは、互いの欠落を埋めるかのように共に果てしなき旅路を歩む。様々な土地を訪れ、人々との出会いと別れを繰り返しながら、やがて二人は西の彼方に聳え立つ霊峰を目指す。
●「迦陵頻伽の仔は西へ」本編
ぎしゃり、ぎしゃり。
延々と続く黄金色の丘陵に足跡が刻まれる度、砂粒が痛ましく軋んでいく。激しい熱に灼かれた鳴沙山を征く旅人にとって、悲鳴にも似た歪な音色は心の叫びの表れでもあった。
抱えた焦燥を砂粒の鳴き声に託し、橿原良嗣は頑なに無言を貫いたまま、異国に広がる熱砂の大地を踏み締めていた。
東から西に伸びゆく一筋の足跡は、誰よりも際立って大きく、底が深い。堂々たる軌跡を作り出している主は、七尺半※1 もの身の丈を誇る良嗣の巨躯と、その身に背負った大荷物だけではなかった。
「あぁもう……どこまで続いてんだ、この砂山ぁ」
良嗣の左肩に腰掛けたオトが、天を仰いで愚痴を溢した。駄々を捏ねる少女の上擦った声は、照り付ける陽光の前に虚しく霧散していった。
琥珀色の瞳が見上げた空は、どこまでも蒼く澄み渡る。見る者の心を晴れ渡らせるはずの好天も、今のオトにとっては単なる苛立ちの種でしかなかった。
すると、荒ぶる心情と響き合うかのように、熱気の籠った向風が吹いた。深く刻まれた足跡さえ掻き消す強さで吹き荒ぶ熱風は、二人が纏った揃いの外套を靡かせ、肩まで伸ばしたオトの黒髪に大量の砂粒を絡ませた。
「ったく、鬱陶しいなぁ!」
辛抱たまらず、オトは激しく頭を振り乱した。汗ばんだ髪と砂粒が、オトの右隣に並んだ良嗣の仏頂面にべったりと貼り付く。
ざらついた髪を溜息とともに払い、良嗣は鋭い半眼をオトの方に振り向けた。
「いい加減にしないか」
「だって、オマエが余計なことしたせいだからな!」
オトは歯軋りをしながら、良嗣の後ろ髪を鷲掴みにした。不惑の年を間近に控えた良嗣の、所々に白みを帯びた一つ結びが引っ張られる。子ども染みた悪戯を、良嗣はなされるがままに粛々と受け入れていた。
「そりゃあ、確かにおれも頭に来たけどさぁ……。別に見られたわけじゃないんだぜ。陽関まではどうにか我慢して、あいつらにくっ付いてた方がよかったんじゃないのか?」
瓜州※2 の街を立った二人は、街に程近い月牙泉の辺りで遭遇した商隊と共に、西域への玄関口となる陽関を目指していたはずだった。昨晩、酒に酔った一人が、オトの寝具を剥ぎ取ろうとするまでは。
「あのような下卑た連中、信用できん」
巨木のような腕の先から放たれた良嗣の拳は、一撃で商人を昏倒に追いやった。たとえ冗談半分だったとしても少女相手に狼藉を働こうとした商人、そして彼の肩を持つ商隊の仲間に向ける情けを、良嗣は持ち合わせていなかった。
以来、商隊に置き去りにされた二人は駱駝の背に頼れず、無謀にも徒歩での行路を余儀なくされていた。
「じゃあ、手形はどうする気だよ? あれ持ってなきゃ、陽関を越えられないんだろ」
返答に詰まった良嗣は、結んだ唇を強く噛み締めた。商隊が携えていた通行手形を頼れなくなった以上、堅牢な関所として名高い陽関を通り抜ける術はなかった。陽関から先への越境が叶わなければ、海をも越えて西域を目指した唐《とう》の旅路は、砂に埋もれて終わりを告げる。
左隣から向けられた冷やかな目線を受け入れ、良嗣は一層強く足を踏み下ろした。足元から響き渡る鈍い悲鳴は、より痛ましさを増していた。
「……無駄話はもう終わりだ。水と食料が尽きてしまう前に、今は少しでも前に進むしかない」
「やたらに進んだって、足止め喰らっちゃ意味ないだろ! 狼煙でも上げて、別の商人どもが通るのを待つべきだ」
「来るかも知れぬ助けを待ちながら、この場で乾涸びて骨になりたいか? ……そもそも、西を目指したがっていたのはお前だろう」
「ばか! その話、今更蒸し返すんじゃねえよ! 大体なぁ、オマエがいっつも後先考えず動くから、おれまでこんな目に遭うんだ──」
突然、燃え広がった口論の火が打ち消された。別人のように落ち着き払った調子で、オトは良嗣に耳打ちした。
「……何か聴こえる。砂をぞわぞわ這ってるみたいだ、薄気味悪ぃ」
「人間か? それとも獣か?」
「人間だ。三人……いや、四人か。丘の向こうだ。おれたち、待ち伏せされてる」
「間違いないな」
「ああ。足音をうまく殺してるつもりみたいだ。どこのどいつだか知らないけど、そこそこやるじゃないか」
オトの助言に促されるように、良嗣は歩みを止めて荷を下ろすと、拳を硬く握り締めた。溜まった汗の雫が拳を離れ、乾いた大地にじわりと染み込んでいく。
程なくして、砂丘の奥から三人の男が姿を現した。
日除けの頭巾を被った浅黒い肌の男たちは、皆一様に素足を晒し、右手に直刀を握り締めていた。その姿は彼らが善意ある旅人ではなく、二人に害をなす野盗であることを示していた。
足裏の熱砂を物ともせず、素足を滑らせてにじり寄る野盗たちは、立ち塞がって粗野な咆哮を上げた。強い訛りが混じった漢語の怒声が、良嗣の耳を容易く擦り抜けていく。一方のオトは聴覚を研ぎ澄まし、語気に込められた感情を声色から読み取った。
「一体何を喚いている?」
「いつもの野盗と同じだ。『食い物と有り金、それに女も全部置いてけ』ってさ」
「そうか。予想通りだ」
「はぁ、それだけかよ!? ちょっとは有り難がったらどうだ!」
突然の敵襲にも動じない標的の様子に痺れを切らし、更に強く声を挙げながら野盗たちが迫った。
三人分の雄叫びが正面から接近する。その時、荒々しい声の背後に潜んだ微かな砂の騒めきを、オトは的確に捉えた。
「後ろ!」
振り返りもせずオトが叫ぶ。
声の合図に応じ、良嗣は背後から忍び寄った四人目の斬撃を避け、振り向き様に裏拳を入れた。強烈な拳打が鳩尾に直撃する。意表を突かれた男は一瞬のうちに吹き飛ばされ、意識を失い倒れ込んだ。
続いて襲い来る正面の男には、すかさず顎へ掌打を当てた。脳を激しく揺り動かされた男は、剣を振るう間もなく砂の上に崩れ落ちた。
「何だよ、大したことない連中だなぁ」
オトは良嗣の肩の上から、野盗たちを悠々と見下ろしていた。敵だらけの旅路の最中、暴漢が良嗣の手で次々に捩じ伏せられていく様は、オトにとって見慣れた光景だった。
「まだ二人残っている、気を抜くな」
「言われなくてもわかってるって──」
軽口を叩く心に、決して油断はなかった。だが、野盗の一人が背中に隠し持っていた得物の存在を、オトは聴き取れなかった。
風を切り裂く口笛のような音色がオトの耳に届いた時、二人の身体は既に反応する余裕を失っていた。
「オト!」
熱砂の大地をも震わせる良嗣の叫びも空しく、鞭による素早い一撃が迫り来る。
間合いの外から迫った鞭の攻撃は、紙一重の差でオトの肉体には届かず、身に纏った外套を掠めた。
勢いの余り、外套が引き剥がされる。巻き上げられた麻布と共に、一枚の白い羽根が、はらりと宙を舞った。
首から下を隠していたオトの姿が露わになった刹那、野盗たちの思考は凍り付いた。
「……見たなぁ」
膝から下の脚は肉を持たず骨張っており、先端には暴力的なまでに鋭利な鉤爪が生えていた。そして、切れ込みが入った肌襦袢の背からは、傷だらけの小さな翼が顔を出していた。
野盗たちの瞳に映ったその姿は人間でも鳥でもなく、得体の知れない異形の怪物以外の何者でもなかった。
人間の少女ではなく、珍奇な見世物としての価値へと野盗たちの頭が働き出した直後、オトの荒々しい雄叫びが鋭く切り込んだ。
「おらぁっ!」
すかさずオトは眼前の怯んだ男に跳び付き、足先の鉤爪を振るって顔面を引き裂いた。焼けた肌から吹き出した鮮血が、砂を赤黒く染めていった。
同時に良嗣は残る男に迫り、腹を拳で打ち抜いた。胃を押し潰された男は、前のめりに倒れ嘔吐した。
「失せろ」
唐の砂漠を根城にする野盗に、良嗣の故郷の言葉など届くはずがない。だが、声に込められた強い怒気は、威圧感となって全員に伝播した。
満身創痍の野盗たちに、最早反抗する力は残されていない。かろうじて身動きが取れる二人は意識を失った二人を抱え、息も絶え絶えに逃げ去っていった。
離れていく野盗たちには目もくれず、良嗣はオトの元に駆け寄った。砂が深く沈み込み、悲痛な声を挙げる。
「大丈夫か、怪我は──」
「ああ、ぜんっぜん平気。これは元からのやつ。……でも、まさかあいつらに見られちまうとはなぁ」
オトは翼に付いた砂粒を、そっと撫でるように払い落としていた。小さな翼を形作る白い羽は所々の色が燻んで、痛ましく傷付いている。どれ程の時を経ても決して癒されることのない傷の様子は、獣の牙に蹂躙され命を落とす、哀れな雛鳥の姿に似ていた。
空を知らない翼を背負い、それでも気丈に振る舞うオトの姿を前にして、良嗣は頭を垂れた。
「……済まない。俺が代わりに受けていれば」
「ばか、謝んなよ! オマエが怪我して歩けなくなっても、おれは運んでやれないからな。お互い無事だったんだから、めでたしめでたし! ……ってことにしようぜ」
嘯く調子を誤魔化すように、オトは西に目を向けた。視界の先で背中を向ける四人の姿は、徐々に弱々しい程に小さくなっていた。
「いいのかよ、あいつら放っといて?」
「奴らが逃げたのは東だ。……西を目指さぬ者とは、二度と巡り逢わないだろう」
「もし、駱駝とか馬にでも乗って追い掛けてきたら?」
「言われるまでもない。全員打ち倒すまでだ」
入唐後の二年半で良嗣が集めた衆目は数知れない。人並外れた巨躯もさることながら、左肩に少女を伴っている奇異な姿が目立つのも無理はなかった。
旅路の最中に幾度も野盗の標的となる度、良嗣はオトが小さな身体に秘めた力を借りながら、剛腕を頼りに降りかかる火の粉を払い続けてきた。強さに対する良嗣の自負は、果ての見えない旅を続けていく自信に繋がっていた。
「全く、頼もしいんだか勝手なんだか──ん?」
砂の上の外套を拾おうとしたオトは、慌てて地面を指した。
「ほら! よく見てみろよ!」
血と吐瀉物で潤う砂上には幾枚かの銭貨と携行食、そして華美な意匠が施された竹筒が落ちていた。
良嗣は砂上に膝を突くと、真っ先に竹筒へと手を伸ばし、慎重に蓋を開けて中身の書状を取り出した。精緻に綴られた筆字の連なりを、オトは良嗣を押し退けて食い入るように眺めた。
「おい、まさかこれって──」
「ああ。運に恵まれたようだ」
竹筒の中には、確かに陽関の通行手形が納められていた。精巧に造られた偽書か商隊から奪った盗品か、あるいはその双方かと、良嗣が抱きかけた疑念は意味をなさなかった。出処も真偽も判然とせずとも、陽関を越える手立ては他にない。千載一遇の好機を前に、良嗣は胸を撫で下ろした。
「いいねぇ、いっそ堂々と行こうぜ」
オトは座り込んだ良嗣の左肩によじ登ると、きひひ、と笑い声を上げた。切り株のように広くて逞しい良嗣の肩を、オトは何よりも気に入っていた。
◇
陽関の先に顕現した世界は、僅か三つの色彩から成り立っていた。
南に広がる黄金の地平と蒼天との狭間を、果てしなく続く純白の山脈が隔てている。
関所前の市場で見繕った駱駝の足を止め、二人は眼前に広がる景色に魅入った。比類のない壮麗さは、饒舌なオトから全ての言葉を奪い去っていった。
共に唇を結んでいる二人の横を、緩やかな風が通り抜けていく。大地に撒かれた砂粒が風にそっと撫でられ、さらさら、と笑い声を立てる。
微かな音色が耳に流れ込み、良嗣は不意に沈黙を意識した。
「おい」
左肩の上で陶然とし続けているオトに、良嗣は無粋と知りながらも横槍を入れた。意識の外側から飛び込んだ野太い声に、思わずオトは身を震わせた。
「わっ! いきなり脅かすなよ」
「……あまり黙っていられると、どうにも調子が狂う」
「何だよ、いつもはすぐ『うるさい』って文句垂れるくせにさぁ」
興を削がれた不満を冗談混じりに訴えると、オトは三色の世界を包み込むように、正面に向けて両手を広げた。
「このまま先へ進んだら、ここにはもう戻ってこないだろ? だったら、今しか見えないこの景色、ちゃんと覚えとかなきゃと思ってさ。もし思い出したくなった時、忘れちまって寂しくならないように」
無邪気で幼い円な瞳に、大人びた憂いの幕が掛かった。
風が砂を撫でる調子に合わせ、呼吸は細く長く、穏やかになっていく。
そして、オトは小さな唇を開き、瞳に映った光景を声に閉じ込めた。
「渭城朝雨浥軽塵
(渭城の朝に降る雨は、土埃を濡らし)
客舎青青柳色新
(宿の柳は雨に洗われ、青々として色鮮やかだ)
勧君更尽一杯酒
(もう一杯、酒を君に勧めよう)
西出陽関無故人
(西方の陽関を出てしまえば、もう友人もいないだろうから)」
長安で知った高名な詩※3 の読み下しに、オトは即興で節を付けた。僧侶の梵唄※4 を思わせる清らかな調べの唄声は、遥かな山脈まで届きそうな程に伸びやかだった。
景色の虜になったオトと同じように、良嗣は唄声に陶然としていた。旅路の最中、心が大きく動く度にオトが奏でる唄声は、良嗣の心を捉えて放さなかった。
「……西の方、陽関を出ずれば、故人無からん……」
良嗣は地平の果てを見据えながら、詩の結句を復唱した。
己れに言い聞かせるように発した一言一句には、自戒の念が込められていた。詩に詠われた通り、陽関の先に良嗣と親交のある者はいない。たとえ後戻りをしたところで、親しき者への再会は二度と叶わない。
遣唐使たちを統べる遣唐大使の任から背いた良嗣に、踏む故郷の土はない。大波に揺られる遣唐使船で幼い密航者と邂逅した日から、その覚悟は定まっていた。
「……西へ、ずっと西へ行きたい。唄がおれを喚んでる。頼む、見逃してくれ」
かつて遣唐使船の積荷の中に潜んでいた少女は、弱々しく良嗣に懇願した。
粗末な布切れを纏っただけの風体は、平安京の片隅で生きる孤児たちと相違ない。しかし、枯れた細枝のような脚と随所が破れ傷付いた翼が、少女が人の子に非ざる存在であることを物語っていた。
戸惑いを胸に秘め、良嗣は改めて少女を問い質した。
「何者だ」
「……知らない」
「ふざけているのか」
「ふざけてない。何も知らないんだ。おれが知ってるのは、ずっと西の方から時々聴こえてくる唄が、おれを喚んでるってことだけだ」
「何を言う。唄など聴こえるものか」
「嘘じゃない。おれには聴こえるんだ、こんな唄が──」
少女は自身が耳にした旋律を、他の船員に聞かれぬように微音で奏でた。
旋律に乗せられた異国の言葉の意味は、良嗣には皆目見当も付かなかった。だが、良嗣は唄声に惹かれるとともに確信した。少女は幻覚でも、邪なる者でもない。
鳥の如き翼と脚、そして妙なる声を持つ者の存在を、良嗣は知っていた。
「……迦陵頻伽……」
流行病に倒れた一人娘を弔った僧侶の法話が、良嗣の脳裏に蘇っていた。唄を誰よりも深く愛していた音子は、きっと迦陵頻伽と共に天を舞い、西方極楽浄土を唄で満たしているだろう。嘆きに暮れていた良嗣に、僧侶は語った。
少女の瞳は円で、音子の瞳は良嗣によく似た切れ長だった。墨で染めたような少女の黒い髪も、音子の栗色の髪とは全く異なっていた。
眼前の少女と音子は似ても似つかない。誰も音子の代わりになどなれない。全て承知の上で、良嗣は少女を大使部屋に匿い、乾飯と名を授けた。それは遣唐大使としての大義も、誰もが羨む官位も守るべき家名さえも捨て去り、人の世に堕ちた飛べない迷鳥の止まり木となる誓いだった。
出逢いの日からずっと、良嗣はオトの唄声に聴き惚れ続けていた。
だからこそ今、オトの唄と呼応するかのように流れてきた微かな響きを、良嗣が聞き逃さないはずはなかった。
「「あ……」」
二人の声が重なり合った。良嗣が自ずと漏らした吐息混じりの言葉の意味を、オトは直ちに悟った。
「なあ、もしかして今──」
「……そうだ。きっと、お前にも聴こえているのだろう」
威厳と気品を纏わせた幾人もの唄声が、良嗣の耳を撫でていた。旋律に乗せられた言葉の意味や、そもそも言葉に意味があるのかさえ判然としていない。今はただ、遂に声の主から認められたような得も言われぬ感慨だけが、良嗣の胸を確かに震わせた。
「本当か! 本当なんだな! やっとオマエにも聴こえたんだな!」
筋骨逞しい背中を、オトは平手で幾度も叩いた。有り余る嬉しさの証を、良嗣は素直に受け止めていた。
「……ああ。しかし、この唄……一体何処から……」
良嗣は再び三色の世界を見渡し、視線を右往左往させた。しかし、どれだけ意識を集中させても、首と声の出処には辿り着けなかった。
対するオトは唯一点のみを見据え、か細い人差し指を勢いよく伸ばした。
「あっちだ! ずっと西にある山のてっぺん! 間違いない!」
オトが指し示した先には、南西の彼方に伸びゆく崑崙山脈の合間から顔を覗かせる、遠き彼方に聳え立った山の最高峰があった。
高揚するオトを横目に、良嗣も自らの指を伸ばした。双眼に映った小さな三角形は、伸びた爪の先にも満たない程度の高さしかない。
果てしなく遠い目的地を目の当たりにし、良嗣は考えを巡らせていた。
──何里先で何尺の高さを誇る山なのか。人間の力で辿り着ける場所なのか。唄は本当に頂上から響いてきたのか。声の主はオトの家族や仲間か。迦陵頻伽が住まう世界が待っているのならば、そこに音子の姿は──。
「行くぞ」
「えぇ、もう少し休んでこうぜ」
逸る胸の内を抑え切れない良嗣は、駱駝に跨がると正面の瘤を軽く叩いた。二人が越えてきた砂丘にも似た逞しい二瘤の隙間には、まだ少女が一人座れる程度の僅かな余裕があった。
「偶には乗ったらどうだ」
「嫌だね、こっちの方が落ち着くんだよ」
良嗣の左肩に陣取っているオトは、首を横に振って澄まし顔を返した。眩いばかりの陽光と、緩やかな追い風が運んだ砂粒が、艶のある黒髪に金剛石のような輝きを散りばめる。
外見相応の無邪気な少女らしい仕草を見届けると、良嗣は感情を悟られぬよう、顔を右に背けたまま手綱を引いた。仄かに上がった口角を真横から凝視されていると、不覚にも良嗣は気付いていない。
「しっかり掴まっていろ」
「おう!」
威勢のいいオトの返事に応じ、手綱を引く良嗣を待たずに駱駝は歩き出した。
天の蒼に最も近い白を目指し進む二人を、日輪が放つ光が煌々と照らしていた。
「迦陵頻伽の仔は西へ」完
つづく
※1 七尺半 約223.5cm。養老律令における尺貫法(一尺=29.8cm)にて換算。
※2 瓜州 現在の敦煌。
※3 王維(699-759 / 701-761)の詩「送元二使安西」。
※4 梵唄 経典などに節を付けた仏教音楽の一種。
二人の冒険は更に続きます。続章につきましては、以下の記事またはマガジンをご参照ください。
