「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(六)
高原に夜の帳が下りようとしていた。深い藍色だった空は墨を落としたような色濃さを見せ、西の空には宵の明星が姿を現している。
人家から少しずつ灯明の光が消え始め、集落が闇と静寂に包まれていく中、川べりの漁師小屋に戸を叩く音が響き渡った。
「馬鹿野郎! 何しやがる──」
戸口から漏れる焔光が、来訪者を淡く照らし出す。
そこには七尺半※の巨躯が膝を突き、家主の青年に向かって深々と頭を下げる姿があった。
「……何の真似だよ、冗談きついぜ」
「先程の非礼を詫びたい。済まなかった」
「さっきは悪かったよ。いきなり来たくせに、図々しかったよな」
良嗣に続き、オトも頭と共に詫び言を垂れた。まだ会得してから日の浅い良嗣の吐蕃語は、オトの流暢さとは比較にならない程に辿々しい。それでも、良嗣は一つ一つ、出来る限り丁寧に言葉を重ねていった。
「……俺たちはこの大河を渡る術を求め、幾十日も旅をしていた。橋も船も長らく当てがなかったが、この集落に漁を営む者がいると知った。俺たちには他に頼る縁がない。だが、其方の願いを全て聞き入れるわけにもいかない」
「あぁ?」
良嗣は身を地に伏したまま頭を上げて、怪訝な表情を浮かべた青年と目を合わせた。
「目指す地へと生きて辿り着くための糧が、俺たちにはどうしても必要だ。全ての財貨は差し出せないが、出来る限りの謝礼はする。どうか、今一度考え直してはくれないか」
懇願の意を込めて、再び良嗣は頭を垂れた。
「結局、銀貨五枚も出せないからまけてくれって話かよ。都合がいいな」
「そう思われるのは承知の上だ」
「頼むよ。おれたち、どうしても行かなきゃならない場所があるんだ」
寡黙な大男と口煩い幼子が平伏を続ける姿に、青年は少なからぬ戸惑いを覚えつつも、半ば呆れたように吐き捨てた。
「……退屈だ」
「はぁ?」
突拍子もない青年の一言に、今度はオトが呆れ声を上げた。
「お前ら、遠くから旅して来たってんなら、暇潰しになるようなネタの一つや二つ持ってんだろ? わざわざ押し掛けやがって、すっかり眠気も覚めちまった。せいぜい楽しませてくれよ」
二人の要求を阻むかのように、青年は戸口の前で座り込んだ。
一拍置いて、渋面をする青年をよそに、良嗣は祖国の言葉でオトに耳打ちした。
「また悪い冗談か」
「いや、ウソは吐いてないみたいだぜ。声に嫌な響きがないからな。渡れるも渡れないも、おれたちの出方次第ってことだ」
「……気紛れな男だ」
解決の糸口となり得るオトの答えに、良嗣はひとまずの安堵を覚えた。オトの読みの正しさを、良嗣は旅路の中で幾度も実感している。それ以上に、四十年近くも慣れ親しんだ祖国の言葉で交わす会話に、良嗣は居心地の良さを感じていた。
「今はとにかく、こいつの気まぐれに付き合ってやるしかなさそうだな。仕方ないから、おれが相手してやるよ」
「待て、それなら俺が──」
「別にいいって! 確かにこっち《・・・》の言葉もずいぶんサマになってきたけど、オマエって口下手だからなぁ。それに、オマエはもう十分やってくれただろ。頭だって下げたし、それに……」
一瞬飲み込もうとした言葉を、オトは静かに告げた。
「さっきおれがあいつに飛び掛かろうとした時、本当はおれより先にぶん殴ってやりたいと思ってたの、声で丸わかりだったぜ。オマエにしてはよく我慢したよ。……ありがとな」
オトは八重歯を見せて得意気に笑うと、西の彼方で一際輝く明星を見上げた。
「だから、今度はおれに任せとけって」
琥珀色の瞳が星のように輝く。幼くも凛々しい横顔から、良嗣は得も言われぬ気高さを感じた。
※ 七尺半 約223.5cm。一尺=29.8cmとして換算。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
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