「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(八)
翡翠色の馬泉河に、緩やかな波紋が広がっていく。
二人の旅人を乗せた小さな皮舟は、青年が操る櫂の導きによって、五里※1 も離れた対岸へ向けて進んでいた。
対岸に広がる灰色の丘陵は、淡い朝霧と静寂の薄衣に包まれている。物思いに耽りながら霧を見つめる良嗣の後ろで、オトと青年は舌戦を交えていた。
「全く、ぐだぐだ言わずに最初っから乗せてくれりゃよかったんだよ」
「相変わらず口が減らねぇガキだな、このまま戻ったっていいんだぜ」
「ばか言うな! 向こう岸までの片道で、銀貨二枚も払ったんだ。それに、ヤクだって置いてってやっただろ」
「五枚からまけてやったのに文句垂れるなよ。そもそも、あんなデカいの乗せられないんだ。せいぜい自分の足を働かせるんだな」
「そっちこそ文句ばっか抜かしやがって、昨日『乗せてやる』って言ったくせに! おら、もっと力入れて漕げ!」
オトは船縁の木枠を、平手で幾度も叩いた。舟が弱々しく軋み、ゆらりと左右に傾く。
青年は息を一つ払い、櫂を漕ぐ手に力を込めた。僅かに舟の速度が上がる。
「……まぁ、いい退屈凌ぎをさせてもらったからな。自分から吹っ掛けた約束くらい、ちゃんと守ってやる」
頑として心変わりの理由を語ろうとしない青年の胸の内を、良嗣が推し量ることは容易かった。
昨晩、良嗣が漁師小屋で目にした光景は、夢や幻などでは片付けられないものだった。
瓜州※2 の砂漠に湧いた清浄なる泉、そして水面に映る眩いばかりの月と星は、全てオトが青年に物語った情景に他ならない。その語り口は、昼間の灼熱とは対照的に涼やかな砂漠の夜風や、乾いた肌を包む湧水の潤いさえも感じさせた。
荒涼とした世界が鮮やかに塗り替えられる幻覚は、オトの声が呼び起こしたものだ。間違いなく青年も自身と同じ体験をしたと、良嗣は確信していた。
声に宿った感情を鋭敏に読み取り、耳慣れぬ異国語さえ容易く操り、妙なる声で人心を震わせる迦陵頻伽の力など、青年には知る由もない。その上、旅路の中でオトの力は更に強まっている。青年の困惑と感嘆を想像し、良嗣は誰にともなく頷いた。
一方の青年は、神妙な面持ちでオトを見つめた。
「……いっそ、そこに骨を埋めちまえばよかったんじゃねぇのか」
「はぁ?」
「お前、ガキの癖に大層な芸達者だよな。どんな奴でも聴き入っちまう声だ。それだけのものを持ってるなら、どこだって生きていけるだろ」
「なんだよ今更、それ褒めてるつもりか?」
「そっちのお前もだ。……おい、聞いてんのかよ?」
良嗣は船尾に振り返った。七尺半の巨躯が動き、また舟が大きく揺れる。
「その図体じゃ、商隊の荷運びか用心棒にでも引くて数多だろ。どっかの偉い奴に召し抱えられても不思議じゃない。ただ黙って働いてるだけで、食うには困らないだろうな」
「……荷運びも用心棒も、宮仕えも経験済みだ」
「でも、お前はそれに満足しなかった。誰かから必要とされて、居場所なんかどこにだってあるはずなのに」
青年は対岸に遠い眼差しを向けた。櫂を漕ぐ手がはたと止まり、船が緩やかに速度を落とす。
「……なあ、河を渡ってどこに行く? この先は人の往来が益々減っていって、どこまでも枯れて死んだ土地が広がってるって聞いてるぜ。そんな場所に向かって何になる? 事情があるのは俺だってわかる。でも、無駄に死に急ぐような旅なんかしなくたって、呑気に暮らしていけるなら、その方が絶対にいいだろ?」
青年の問い掛けは、確かに二人の耳に届いていた。
しかし、その声を押し流すかのように、高原の風が旋律を運んできた。
淑やかな女性たちの声が重なり合い、妙なる唄が織り成されていく。旅路の中で時折聞こえる不可思議な旋律を、二人はいつしか「導きの唄」と称するようになった。
静寂は青年の耳にだけ訪れている。その歪な沈黙を、オトの凜とした声が破った。
「 まぁ、呑気に暮らすのだって悪くないかもなぁ。でも、行かなきゃいけないんだ。どんなに居心地が良くても、美味いものがあっても、見とれちまうような景色の場所でも。そう感じるたびに、『おれの居場所はここじゃない』『早く来い』って、ずうっと言われてる気がするんだ」
「どういう事だ、そりゃ」
「おれには──おれたちにはわかるんだ。だから、おれたちは絶対にあそこまで行く」
彼方より響く導きの唄の出処を、オトは力強く指差した。
遥か南の空の下、灰色の曇天を切り裂いて、鋭い稜線が姿を現していた。
その頂点たるチョモランマの峻峰を、オトと共に良嗣は見据えた。
「死んだ土地だろうと構わない。彼女を連れて行き、確かめなければならない。……その時まで俺は死ねない」
良嗣の脳裏には、常に亡き愛娘、音子の姿がある。チョモランマの頂上に迦陵頻伽の舞う極楽浄土があることを、良嗣は一心に望んでいた。そして、記憶の中の音子が影となって霧散してしまう前に、再び相まみえることを願っていた。
切なる想いを、良嗣は細く鋭い眼差しに託している。力強さと憂いの込められた瞳から、青年は思わず目を逸らした。
「……どうかしてるぜ、お前ら」
「よく言われるよ。なぁ?」
「ああ、とうに慣れた」
青年は再び櫂に力を込めた。死の大地へと、舟はまた近付いていく。
※1 一里=約536m。 五里=約2680m。
養老律令における尺貫法にて換算。参考:新井宏「延喜式の度量衡」
※2 瓜州 今日における敦煌市。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨム・caitaでも並行して連載しております。
