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迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸(九/終)

前回「迦陵頻伽の仔の渡岸」(八)」

 拉薩ラサの街を遠く離れ、馬泉河ヤルツァンポ沿いを西へ約五千里※。そして、南の対岸まで五里。
 高原を割く翡翠色の大河を巡る旅路は、遂に終わりを迎えようとしていた。

「よっこいしょ、とぉ」

 接岸した皮舟コワから身を乗り出したオトは、意気揚々と乾いた白砂の大地に飛び移った。
 続けて、良嗣も舟から一歩を踏み出す。七尺半の巨躯と積荷の重さに喘いでいた舟は、たちまち浮上し大きく揺れ動いた。
 良嗣が背負った背負子しょいこには、解体した小型の天幕や乾物ばかりの食糧など、最低限の携行品がうずたかく積もれている。船頭の青年は呆気に取られた表情を顔に貼り付け、良嗣を見上げた。

「お前、本当に人間か……?」
「ば、ばか! 人間じゃなかったら何だってんだよ!」

 冗談めいた青年の一言に、オトは思わず身を屈めて反応した。
 唖然としていた青年の顔が、たちまち怪訝なものに変わる。

「一々デカい声出すなよ、お前に言ってんじゃないんだ」
「……あ、だよな、わりぃ悪ぃ。このデカブツ、何度か熊と間違えられてるんだぜ。無理もないよなぁ」

 オトを迦陵頻伽たらしめている背中の翼と足の鉤爪かぎづめは、今もなお外套の中に包み隠されている。
 焦燥を誤魔化そうと、オトは舟上の青年に向き直り、外套からはみ出した手で威勢よく胸を叩いた。

「そういや、ずっと名乗ってないままだったよな! おれはオトって呼ばれてる。で、こっちのデカブツは──」
「良嗣だ。姓は橿原かしはら。其方は──」
「今更名前なんてどうでもいいだろ? もう会うこともないんだ、どうせすぐ忘れる」
「ひねくれやがって。面倒掛けさせられたヤツの名前くらい、お互いしっかり覚えとこうぜ。なぁ?」

 純粋さの中に皮肉が混じっているオトの笑みに、青年も釣られて応じた。

「……ダワ。家名なんか持ってない、ただのダワだ」

 控え目に告げられた名が示す吐蕃とばん語の意味を、二人はよく知っていた。
 良嗣の瞼の裏に、昨晩オトが滔々とうとうと語った、泉に映り込む砂漠の月夜が現れる。妙なる声がいざなった二つの月と星々のまばゆさは、より鮮烈さを増して良嗣の脳裏に蘇った。

ダワ……」
「良い名前してるじゃねえか、なぁ?」
「うるせえ! 用は済んだろ、どこへなりと行くんだな」

 ダワと名乗った青年は素早くかいを捌き、舳先へさきを対岸の集落へと向けた。舟を操るダワの背中は徐々に小さくなり、朝霧の中へ溶け込んでいく。
 オトは外套からはみ出した手を、頭上で威勢よく振った。『ありがとなぁー』という叫びにも、舟が速度を落とすことはない。
 背負子の積荷が揺れることもいとわず、去り行く影に向かって良嗣は深々と一礼した。

「……そうか。あの男の名、知っていたのか」

 おもてを上げてダワの姿を見送りながら、良嗣は得心した調子で呟いた。
 オトは一瞬首を傾げると、途端に引き笑いをして答えた。

「きひひひひっ! まさかぁ、名乗ってもなかったのに知るわけないだろ! おれを何だと思ってんだ、買い被りすぎだぜ」
「ならば、あの二つの月の話は──」
「暇つぶしだとか何とか抜かすから、おれも暇つぶしに思い出話をしただけさ。あいつの名前がどうとか、知ったこっちゃないね」
「納得させる算段があった訳ではないのか」
「ないよ、そんなもん!」
「……」

 肝を冷やした良嗣は、無言で強く眉間をつねった。刻まれた生来の皺が、より一層深くなる。

 我関せずとばかりに、オトは曇天に向けて右の拳を突き出した。

「過ぎたことはいいだろ、さっさと行こうぜ! ここまで来たらもう戻れないんだ、前に進むっきゃないよな」

 背負った小型の背嚢を担ぎ直すと、オトは我先にと歩き出した。乾いた白砂の大地に、鉤爪の足跡が増えていく。
 迦陵頻伽の仔たる証を立ち尽くして眺めていた良嗣は、我に返ってオトを呼び止めた。

「待て」
「ん、どうしたよ?」
「いや……乗らないのか」

 背負子の紐が硬く食い込んだ左肩に、良嗣は手を当てた。幼子一人が腰掛けられるほどにたくましい良嗣の肩は、たとえ駱駝らくだ犛牛ヤクに乗っていようとも、オトが好んで座りたがる居場所だった。
 戸惑う良嗣をよそに、開けっ広げな調子でオトは答えた。

「ダワのやつ、さっき『自分の足を働かせろ』って言ってたろ。オマエに頼りっぱなしじゃ、あいつにばかにされそうだからなぁ。……あ、でも疲れたら乗せてもらうからな! その、ちゃんと空けとけよ」

 他に誰が座るものか、と返そうとする良嗣を待たず、オトは再び南へ向かって歩みを進めた。
 常の如く、良嗣は鋭い視線を目的地に向けようとした。道なき道の彼方、幾つもの山々の奥にそびえ立つはずのチョモランマの稜線は、白雲に隠れて姿を消している。
 大地にくっきりと刻まれた爪跡を辿って、良嗣は一歩を踏み出した。その最果てには、外套をはためかせながら颯爽さっそうと先を行くオトの後ろ姿がある。たくましい旅人を思わせる小さな背中を前に、良嗣の口元はごくわずかばかり緩んだ。

「迦陵頻伽の仔の渡岸」完

つづく

※ 約260km。ラサから現:シガツェまでの距離。
一里=約536mとして換算。参考:新井宏「延喜式の度量衡」


本作は「迦陵頻伽かりょうびんがは西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨム・caitaでも並行して連載しております。


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