映画『マイケル』「コントロールできない世界」で、自分の光を守り抜くために

映画『マイケル』を観てきた。
単なる音楽の伝記映画を超え、一人の人間の魂の軌跡を見つめるような、心に響く作品だった。
アルバム『スリラー』の日本での発売日が「1982年12月1日」。
ふと自分の記憶が当時の空気感とともに蘇ってきた。
1964年生まれの僕は、あの時ちょうど18歳。
10代の終わりから20代を迎える一番多感な時期に、あの世界的な熱狂をリアルタイムで体験した世代だ。
当時は、MTVにかじりつくように彼の映像を見ていた。
しかし今回の映画で、当時のMTVが「黒人アーティストの映像を流さない」という暗黙のルールを持っていたことを知り、衝撃を受けた。
画面越しに熱狂していたあの光る歩道を軽やかにステップするマイケルの姿(『ビリー・ジーン』)は、単にカッコいい演出というだけでなく、強固な壁を打ち破り、歴史を変えたまさにその瞬間。
今回の映画を通して、心に最も強く残ったのは、マイケルが抱え続けた「コントロールできるもの」と「できないもの」の境界線での葛藤だ。
ステージの上での彼は、自身の肉体から数万人の観衆の感情まで、すべてを完璧に統治する絶対的な存在だった。
しかし一歩ステージを降りれば、メディアの狂乱や大衆の期待、そして何より、父親からの強烈な支配という「自分ではどうにもならない外部の力」に翻弄される。
映画の中で彼が父親の支配から自由になろうともがく姿は、胸を締め付けられるものがあった。
古典的な哲学が説くように、人生において「自らの意志で統治できる内なる領域」と「どうにもならない外部の運命」をどう切り分けるかは、私たち人間にとっての普遍的なテーマだ。
絶対的な才能を持ちながらも、その境界線で精神の均衡を保とうと闘い続けた彼の姿は、不条理な現実を生きる私たちに重い問いを投げかけてくる。
そんな彼の人生を支え、あるいは方向付けたであろう、母親のこの言葉がたまらなく響いた。
「人と違うことで、これからの人生は少し大変になるかもしれない。でも、その光を奪われないように、世界に向けて輝かせ続けなさい」
マイケルは、どれほど世界から誤解され、理不尽な外部の力に削られようとも、自分の中にある純粋な「光」だけは決して他者にコントロールさせなかった。
そんな外部の力(運命)に対する彼の激しい抵抗は、彼自身のパフォーマンスの中にも色濃く表れていたように思う。
『ビリー・ジーン』のムーンウォークや、『スムーズ・クリミナル』で見せたゼロ・グラヴィティ。
摩擦を消し去ったかのように滑り、物理法則を無視したかのように斜め45度に傾く彼の身体。
哲学的な視点で捉えれば、「重力」とは人間を地上に縛り付ける「避けられない現実」や「運命の重さ」の象徴だ。
彼のアイコニックな動きには、常に「重力からの解放」というテーマがつきまとっている。
あの常人離れしたステップは単なるダンスではなく、「人間の精神は、肉体的な限界や与えられた環境(現実)をも超越できるのだ」という、彼なりの強烈なメタファーであり、過酷な運命に対する彼なりの反逆だったんじゃないかな。
彼の人生は、光が強ければ強いほどその影もまた濃くなる「光と影」という、人間の普遍的な真理を極限の形で体現している。
18歳の頃、ただ純粋に「すごい」と熱狂していたあのステップの裏に、どれほどの孤独と哲学が隠されていたのか。
還暦を過ぎた今、こうしてスクリーンを通して彼の人生と再会できたことは、とてもいい体験だった。

